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百次のサムライ-薩摩平氏と石塔4-  串木野忠道の墓とされる宝塔

はじめに
ここでは鹿児島県の薩摩半島に点在する薩摩平氏(伊作平氏)ゆかりの石塔をめぐり、戦国乱世を駆け抜けた兵どもの夢のあとをお伝えします。

平安時代末期、桓武平氏の流れを汲むといわれる平良道(たいらのよしみち)が薩摩国伊作郡(鹿児島県日置市吹上町付近)に郡司として下向し、伊作姓を名のり伊作平氏と呼ばれました。やがて薩摩半島各地に拡がった良道の子孫たちは薩摩平氏と呼ばれました。


串木野忠道の墓とされる宝塔


薩摩川内市百次町徳永原に串木野忠道(くしきのただみち)の墓とされる宝塔(鎌倉時代)があります。

串木野忠道
は薩摩平氏一族で、平良道の孫薩摩忠直の三男です。または串木野三郎忠道ともいいます。

串木野三郎忠道は、串木野城を構えて現在のいちき串木野市下名一帯を治めました。築城は1215~1221年の頃で、1220年に忠道が冠岳霊山寺に土地を寄進しており、この頃には串木野一帯の領地を治めていたようです。

入来文書にみられる「古城主由来記」に、建久年間(1190~1199年)以前の御家人(薩摩郡国人目録)について記録が残っています。これには、薩摩郡では成枝薩摩太郎忠友、上野平次郎忠頼、串木野太郎忠道の名があります。その他、多くの薩摩平氏が名を連ねており、彼らはみな鎌倉幕府の御家人だったようです。

このころ鎌倉では、鎌倉幕府3代目源実朝が暗殺されて、1221年に後鳥羽上皇が鎌倉幕府から政権を取り戻すため承久の乱を起こしますが、失敗して隠岐島(島根県)に流されています。

串木野忠道の墓とされる宝塔(道路側からの全景)
忠道の墓の石材は赤灰色溶結凝灰岩であるといわれる
畑側からの全景
右側の宝塔には四面に梵字が刻まれている
上野氏3代忠真の墓と酷似する宝塔
赤灰色溶結凝灰岩もいくつかあって、どれが忠道の墓なのかはっきり分かりません
散乱する相輪の先端部(宝珠・請花・九輪)
相輪の土台部分(伏鉢・請花)
ここには畑に散らばっていた石塔を集めてあるようです
看板
宝塔の参考図1  出典:川内市史 石塔編

余談ですが冠岳には徐福の伝説があります。徐福は、紀元前200年頃、中国秦の始皇帝の命を受け不老不死の薬を求めてこの地を訪れ、この山に登り冠を捧げたというのです。冠岳は薩摩地方における山岳信仰の中心地で真言密教の地としても知られ古くから多くの寺院が建立された霊山です。

【参考文献】
串木野市郷土史
川内市史上巻
川内市史 石塔編
千台第13号
入来文書:入来院家に伝わる文書。1929年、イェール大学助教授である朝河貫一が「The Documents of Iriki」 を公刊し、日本の封建制度を知る上で世界的に貴重な史料となっている。


【関連記事】永溝口古戦場跡


2024年2月頃、串木野忠道の墓から60m離れた畑の奥にあった石塔数基が道路際に移設されました。永溝口古戦場跡と書かれた看板と一緒に交差点の角にあります。

忠道の墓がある徳永原は安土・桃山時代の永溝口古戦場として伝えられます。1531年、その時の岩田ヶ城主山崎豊前(薩州家島津光久の家臣)と、それを狙う入来院重聡との間で激しい野戦が繰り広げられた場所です。

1531年の永溝口での戦いで戦死した入来院重聡の家臣高城東郷重貞武元右京の墓がこれに当たるのでしょうか。

全景
周りの五輪塔は殆ど逆修碑(生前に自らの冥福を祈って建立する塔)らしいです
宝塔
宝塔

この辺は、現在、東西に農道が貫通する畑作地帯となっていますが、今でも土の中から戦没者を弔ったと思われる丸い石が出てくるそうです。

宝塔の参考図2  出典:川内市史 石塔編

【参考文献】
川内市史 石塔編
川内市史上巻

ほかの薩摩平氏の石塔についても随時アップする予定です。



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