百次のサムライ17 -薩摩平氏と城跡- 吹上町和田の田中城跡
はじめに
ここでは鹿児島県の薩摩半島に点在する薩摩平氏(伊作平氏)ゆかりの城跡をめぐり、戦国乱世を駆け抜けた兵どもの夢のあとをお伝えします。
平安時代末期、桓武平氏の流れを汲むといわれる平良道(たいらのよしみち)が薩摩国伊作郡(鹿児島県日置市吹上町付近)に郡司として下向し、伊作姓を名のり伊作平氏(いざくへいし)と呼ばれました。やがて薩摩半島各地に拡がった良道の子孫たちは薩摩平氏と呼ばれました。
吹上町和田の田中城跡
鹿児島県日置市吹上町は薩摩半島の中央部に位置し、かつてここは伊作郡と呼ばれました。その吹上町和田の字本田中に「田中城跡」があります。今は本丸跡に石碑があるばかりです。田中城跡は、昭和40年(1965)に吹上町指定文化財となりました。
1.田中城主和田氏
①田中城は、建久年間 (1190~1198年)のころ和田八郎親純(わだはちろうちかずみ)の居城でした。城跡の看板によれば、伊作の和田氏については藤原純友の弟藤原遠純(ふじわらとおずみ)の子孫であるとのことです。
②「伊作荘並日置郷下司系図」では、親純は伊作良道の三女が嫁いだ彼杵三郎久純(そのぎさぶろうひさずみ)との間に生まれた子となります。この場合、親純は肥前国の彼杵氏(そのぎし)の流れを汲む人物になります。
③また、地域に伝わる伝承に
という話があります。③によると、親純の父である彼杵久純は藤原氏の子孫ということになるので、①と②の話は繋っていることになりますが…どうなんでしょうか。
2.良道から嫡女へ、そして親純へ
天永3年(1112)には、すでに伊作郡の郡司に補任された伊作平次郎良道が伊作郡を領しており、良道には6男3女がありました。6男はそれぞれ薩摩半島各地に所領を得て拡がりますが、良道の亡き後伊作郡(伊作荘)一帯を領知したのは長女(嫡女)でした。
長女は、肥後国の菊池四郎経遠(きくちしろうつねとう)に嫁ぎましたが、経遠が早くに亡くなったので、後に和田城主となる和田八郎親純(わだはちろうちかずみ)と再嫁し親純は婿養子となります。同じ荘内で身近な縁結びが行われたのです。
長女は父良道から譲られた伊作荘の下司職などの領知権を持った伊作本主知行(もとからの領主)の人であったため、伊作の所領は和田八郎親純へと譲られ、以降、親純の子孫が伊作を治めました。
3.田中城跡に登ってみた
田中城跡は、和田小学校から南へ約350m、坂道沿いの左側にある丘陵地です。城の南東側には堀川が流れています。山城の形態で頂上が本丸の位置になり、その間に土居・土塁がみられます。現在、道路脇から登る途中に土居があり、数個の石碑(石塔)が集められています。
丘の上はなだらかなピークが並んだフタコブラクダの背中のようになっており、登って最初の丘は東西30m、南北20m位の広さ、最後の丘(頂上)は東西15m、南北40m程度のひろさです。
以前は矢竹が生い茂っていましたが今は地元の方によって整備されており歩きやすくなっています。
矢竹の走る方向に宝物が埋蔵されているという伝説があります(旧吹上町誌)。
4.親純の五輪塔とか
先ほどの③吹上の民話にあった天徳寺跡は、建保元年(1213)年に東福寺として創建された伊作郷最古の寺院です。正中2年(1325)の下地中分以降、伊作川の川北から川南に移ってきた伊作島津氏(3代親忠)がここを菩提寺としました。現在、玉垣に囲まれた島津氏の墓5基があります。また、天徳寺に改名されたのはだいぶ後の大永7年(1527)のようです。
ここには他にも、古い時代の僧侶の墓や五輪塔が点在しているので、この中に信純の相輪(墓)があるのかもしれませんが、詳細は不明です。なお、宮内の芝原には「芝原の石塔群」があり則純らの墓があります。金峰町大野にあるという親純の五輪塔については今後確認したいと思います。
【参考文献】
吹上郷土史上巻(1966)日置郡吹上町教育委員会
吹上の民話(1982)増田逸彦
吹上郷土誌通史編 1(2003)吹上郷土誌編纂委員会
新編大村市史第2巻(2013)新編大村市史編集委員会