見出し画像

百次のサムライ16 -薩摩平氏と石塔- 吹上町中原の芝原石塔群 

はじめに
ここでは鹿児島県の薩摩半島に点在する薩摩平氏(伊作平氏ゆかりの石塔をめぐり、戦国乱世を駆け抜けた兵どもの夢のあとをお伝えします。

平安時代末期、桓武平氏の流れを汲むといわれる平良道(たいらのよしみち)が薩摩国伊作郡(鹿児島県日置市吹上町付近)に郡司として下向し、伊作姓を名のり伊作平氏と呼ばれました。



吹上町中原の芝原しぶら石塔群 


鹿児島県日置市吹上町は、薩摩半島の中央部に位置し、かつてここは伊作郡(いざくぐん)と呼ばれました。その吹上町中原に芝原石塔群があります。芝原と書いて「しぶら」と読みます。

芝原石塔群の全景
芝原石塔群
手前の石塔上部
手前の石塔下部

1.伊作に来た者

この石塔群は、平安末期から鎌倉時代にわたって伊作荘の現地荘官(下司職)として領地していた伊作氏(平良道)一族のものといわれます。良道は天永3年(1112)に伊作郡司に補任されてます[1]。この芝原や中津の地域一帯が伊作荘の発祥の地として伊作氏の祖先が開発にあたったところではないかと考えられます。

良道については『薩隅日地理纂考(さつぐうにちちりさんこう)[2]』の伊作郡田中城の項に「平氏村岡五郎良文四世孫伊作平次貞時九州の惣追捕使として薩隅日及び肥前国を領し肥前羽島(鹿島)に住す、四世平次郎良道来りて当邑を領す」とあります。つまり、伊作平次貞時なる人物の子孫が肥前国(佐賀県と長崎県の一部)鹿島から薩摩国伊作郡にやってきたことになります。 

2.伊作から拡がった一族

良道には6男3女がありました。6男は薩摩半島各地に拡がって薩摩平氏と呼ばれます。長男の平次郎道房(へいじろうみちふさ)は川辺を領して河辺郡司祖および河辺氏の祖となり、次男の兵衛尉有道(ひょうえのじょうありみち)は多祢島司祖となり、のちに弟忠永から給黎(喜入)(きいれ)を譲られて給黎氏となります。

三男の三郎忠永(さぶろうただなが)は頴娃を領して頴娃氏となり、頴娃・ 薩摩・知覧・給黎の郡司でしたが、やがて兄有道に給黎を譲りました。四男の平四郎忠景(へいしろうただかげ)は阿多郡司祖および阿多氏となり、五男の五郎忠明(ごろうただあき)は別府氏となって加世田城に住みました。六男の太郎忠吉(たろうただよし)は鹿児島郡司祖となりました。

3.伊作を継いだ者

良道が伊作荘の下司職として所領を納めた後、 伊作荘一帯を領知したのは、長女(嫡女)でした。長女は菊池四郎経遠(きくちしろうつねとう)の妻になりましたが、経遠が早くに亡くなると、のちに和田八郎親純(わだはちろうちかずみ)と再婚しました。長女は父良道から譲られた伊作荘の下司職などの領知権を持っており伊作本主知行の人であったため、伊作の所領は菊池四郎経遠、その後、和田八郎親純へと譲られます。

石塔の中には平則純(たいらののりずみ)のものではないかという相輪(石塔の上に載せた装飾物)のある層塔や五輪塔の残りが見られるというが、どれかはわかりませんでした。系図によると則純は親純の子にあたります。

芝原石塔群 横から

則純の一族は、伊作をはじめ日置南郷外小野や日置北郷の郡司、下司としてその地を領知したり、また益山(加世田市の万之瀬川左岸)を領地し、益山氏を名のって活動してました。

4.芝原の石塔群への道

通りから少し民家の中へ入るので少しわかりづらいです。通りからから石塔群まで徒歩1~2分です。

看板
通りの風景
通りから坂を下ってY字を右の小道へ
小道の突き当りを左折
生け垣がすてきな小道を通過して
小道を逸れて左側の細道へ・・・少し心配になりますが大丈夫
石塔群はすぐそこです

【参考文献】
吹上郷土誌(2003)吹上町教育委員会
覚鑁上人出自考(2020)佐々木紀一
[1]新編大村市史第二巻(2013)新編大村市史編集委員会
[2]薩隅日地理纂考:廃藩置県当時の薩摩国・大隅国と日向国諸県郡の地誌。明治七、八年頃に完成。



いいなと思ったら応援しよう!