百次のサムライ-薩摩平氏と石塔2- 頴娃忠永夫婦の墓とされる層塔
はじめに
ここでは鹿児島県の薩摩半島に点在する薩摩平氏(伊作平氏)ゆかりの石塔をめぐり、戦国乱世を駆け抜けた兵どもの夢のあとをお伝えします。
平安時代末期、桓武平氏の流れを汲むといわれる平良道(たいらのよしみち)が薩摩国伊作郡(鹿児島県日置市吹上町付近)に郡司として下向し、伊作姓を名のり伊作平氏と呼ばれました。やがて薩摩半島各地に拡がった良道の子孫たちは薩摩平氏と呼ばれました。
頴娃忠永夫婦の墓とされる層塔
頴娃忠永(えいただなが)は薩摩平氏一族で、平良道の三男です。または頴娃三郎忠永ともいいます。
鹿児島県薩摩川内市宮崎町六反平には、忠永の孫薩摩太郎忠友が祖父頴娃三郎忠永夫妻の供養塔として建立したとされる層塔があります。
忠永は、薩摩国頴娃郡(現在の南九州市頴娃~指宿市開聞辺り)を領して頴娃氏となり、頴娃・指宿・知覧・給黎(喜入)・薩摩郡などを治めました。 忠永は名前のとおり頴娃にゆかりのある人物ですが薩摩川内市に痕跡が多い人物です。
忠永は、平安時代後期に薩摩川内市中福良町成岡にすでにあった古寺を平礼石寺金剛院(ひられいしじこんごういん)として再興し、田んぼを寄進して子孫繁栄を祈念しました。
【参考文献】
川内市史上巻
川内市史 石塔編
石塔は畑の中にあります。見学する際はマナーを守りましょう。
ほかの薩摩平氏の石塔についても随時アップする予定です。