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リアリティ(2024/1/2)


現実

航空事故の映像を見ながらじんわり来るものがあった。昨日の地震の時、現実味が湧かなかった。家は多少揺れたけど見ていたアニメを見続けていた。ストーブもつけっぱなしだった。ツイッターでサークルの仲間が旅行してたり地元だったりで色々声を上げているのを眺めても、よくわからないというか、感情が動かなかった。今日、飛行機が滑走路上で燃えている映像をニュースで見ながら、ようやく「もしあそこに自分がいたら」というアイデアが、言葉以前の感覚で湧き上がってきた。一緒に見ていた親は「地震といいこの事故といい、今年は波乱の年だな」などと言っていた。僕の中のなにか愉しげな心が揺すられる気がした。災害や大事故の報道を目にして、僕がこの同じ一つの世界に生きていることを再認識する。嘘かもしれない。そうした報道で初めて勃興する感情がある。一体感、連帯感、「宇宙人に対する地球人の連帯」、過激なデモや軍事テロの参加者も、もしかしたら似た気持ちかもしれない。これは良くないな、と思う。では良い現実感とは、一体何なのか。それは「感」であっていいのか。認識、だろうか。理性で納得すること、でいいのだろうか。それともやはり感情で、悲しみや共感と結びついたものだろうか。

VR

大晦日に紅白を見ていて、「すとぷり」というアーティストが出てきて驚いた。テレビにはCGの合成された画面が映っていて、そこには出演者と同じステージに彼らが歌い踊っているのだけど、そこに彼らはいないようだった。観客も壇上の司会者たちも実際には、誰もいない空間へ向かって声援を送り、はしゃぐ振りをしていた。これが受け入れられる世の中なのか。時代に追いついていないという感慨に襲われた。今の時代、VRがある。VTuberがいる。後者はこれだけ市民権を得ている。国民はこんにち、CG合成のキャラクターを紅白の出演者として受け入れろと無言で通達された。案外みんな、染まってしまうのだろうか。時代が変わるとはこういうことなのか、じじくさいけど。

マッチングアプリを使っている夢を見た。始めてから数日経って、その夜初めてメッセージが来た。僕は嬉しくなって、熱心に返信し続けた。これは夢だろうか。会ったこともないから、騙されているのかもしれない。彼女のリアリティは、どこにあるのだろうか。ただ肌感覚だけは熱くて、恋心だけは確からしかった。

宗教

多少唐突で無鉄砲な意見になるが、仏教が嫌いだ。「色即是空、空即是色」というやつ。「胡蝶の夢」とかいうやつ。現実なんてそもそもなかった、とか。一切はどーせ流れ去ります、とか。そんなことを言うために僕は生きてきたのではない、と言いたくなる。そんなことは誰にだって言える。そんなことを誰でも言えるような仕組みに、世界はなっている。そんな世界から、それでも何かを生み出さねばならない、と思う。

SF

昨日地震のあった時に見ていたのは、「攻殻機動隊 SAC 2045」というアニメだった。サイボーグや「電脳」と呼ばれる人間の脳にインターネットを埋め込む技術が普及した世界が舞台だ。戦争や犯罪がいたる所で勃発する秩序なき世界で、警察部隊の主人公たちが活躍するストーリーだ。率直に言って、僕はこのアニメにリアリティを感じている。戦争の始まった経緯や犯罪を犯すに至った人々の事情には、納得できる筋道が提示される。主人公の判断は、正義の一言よりむしろ、彼女個人の信念や理想に左右されていく。論理や情念が絡み合って、ここで開示される世界は一つの世界としてのリアリティを持って僕に現れる。

疑問

説明、報道、台本、演出。リアリティに必要なのは、そうした芝居・ギミックなのだろうか。地震が起きた時、アニメの中の「米軍による中学校への攻撃」と、震災にざわめくネット・テレビの声を脳内で溶かし合って呆けていた僕は、紅白のすとぷりに戸惑った僕と、同じだけ現実を愛しているのか。それとも、それが現実であろうがCGであろうが、ただ「僕への」説明が足りなかったから、僕はリアリティを感じられなかっただけではないのか。心豊かな人々は、そうした「説明」をいわゆる想像力によって補うのだろうか。そうした人々は、紅白のすとぷりもちゃんと受け入れるのだろうか。あるいは現実には現実への想像力があって、想像には想像への想像力があって、僕はどっちも乏しいだけなのか。その場合、現実と想像はそもそもどう見分けられたのか。仏教がまかり通れるこの世界で。

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