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なんにでもマルバツをつけたがる②

そう思ってから始めてみようと思ったのは、①ちょっとでいいから行動範囲を広げてみる②できれば動画や写真を撮る。③それをインスタグラムにあげる。の2つだった。
正直、インスタグラムはフォロワーがいるわけでもない、自分が見たいコンテンツを見るためだけのいわゆるROM専のもの。
Vlogなどを投稿するインフルエンサーにあこがれはあったので、なんとなくまねごとをしつつ、とはいえ別にフォロワー数を増やしたいわけでもないので、見栄えは気にせず形だけまねるのでいいか、という感じ。
本当に面白みはないし、途中で飽きて間が空いてもいいや。余裕があるときにやればいい。ここと同じく自分だけの日記だ、という気持ちでやれば、良い感じに肩の力を抜いて実行できている気がする。
インスタグラムに投稿する、という形をとったのは思い付きだったけれど、私はSNSに切り取って貼り付けたい景色さえなかったので、「こういうものを自分は誰かと共有したい」という指針はひとつ有効なんじゃないかな。有効だといいけどなぁ。
 
話はそれましたが。
そんな経緯で、自分がどんな時にどう感じるのか、に注目してすごしてみたら、自分でも気づかないくらい、息をするように自然と、自分の行為にマルバツを付けているということに気が付いた。
もうそりゃすごいスピードで。
例えば「洋服を見て『楽しい』『かわいい』という感情が湧く私」は〇。(でも、「このかわいい服を着こなすにはやっぱり痩せていないと」となる笑)
「あのアイスカフェ行きたいな。おいしそう。ケーキも食べたい。あ、おなかすいたな、パン食べようかな…」は×。
インテリアコーナーを見て、食器や調理道具など、食べ物につながるものばかりに目移りする私は△。
「スーパーなどで、コーヒーや紅茶(つまるところ、摂取しても太らないもの)を吟味している私」は〇。
他は、「歩いて帰ろう、ちょっと遠回りしようと思う私」は〇、「疲れたから電車乗りたいな…」は×、かなぁ。
自分が感じていることにも、全力ですぐ〇×をつけて、「心を動かされるにも『正しい私』じゃないと駄目」という基準があるようだった。
 
正直言って、興味が食に偏りすぎている感じはするし、それは病気の私の声かもしれないけれど、
常に思考が「食べる、食べない、我慢しなきゃ、太る」に引っ張られてしまうので、できればもう少しまんべんなくありたいなぁ、というところはある。
けれど、常に〇×をつけて、正しい私・理想な私じゃないといけない、と考えているのは、正直…そりゃあいつもなんか疲れるよなぁ、と感じた。
というか、この日は特に感じた。「もう、正解不正解を付けるのに、考えることに、なんかもう判断することにつかれた」と。
 
ちなみに、これを書いている日は、「自分がどうしたら良い気分になれるか」のために始めたこの取り組みさえ、「毎日心が動かされる日がないと駄目だ。」と、また〇×、0か100で考えている自分に気が付いた。
マルバツをつけるって、わかりやすくって、ことがうまく進んでいるかどうかを気にしているときは特に頼っちゃうものだと思う。
別にそれもいいと思う、昨日と違って前向きな自分に出会えた時は、それをお祝いしたって。
けど、今の私はそれらすべてを正解、不正解にしてしまうし、「常に正解を求めないといけない」という考えにとらわれすぎてしまう。
 
だから、「何も心が動かない。ただごろごろしている」それだけが最適解な日もきっとあって、そういう時はそういう選択をとれるように。
「ちょっと活動的になって、こういう『楽しい』を感じることでリフレッシュできる」という日もあるだろうから、そういう時にとびきりの『楽しい』を選べるように。
いったん、マルバツを点けないで、心の動きを眺めてみるという練習をしているんだ、と言い聞かせて過ごそうと思います。