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大きくて、狭い街。

あまりにも境遇が似すぎた二番手

色んな知識や視点を手に入れたいと感じ、本を読むことを目標とした10月。いつもエッセイばかりを読む私が、久しぶりに小説を読んだ。映画化の番宣をバラエティー番組でしていたのを見て、可愛らしい表紙と共に惹かれて買った。随分前に買ったけどどうも読む気になれず、やっと手に取り読みだした。

簡単に書くと、これは同じ男性と関わる2人の女性の話。東京で生まれたお嬢様の華子と、上京してきた漁師の娘である美紀。境遇があまりにもかけ離れすぎている彼女たちは、お互いにどう頑張ってもそれぞれの位置に立てないことへの羞恥心と絶望を少し抱える様子。

メインとなるこの男性・幸一郎と華子は夫婦の関係を手に入れる一方で美紀は幸一郎とだらだらと都合の良い関係を続けてしまう。ぱっと見れば華子の方が明らかに幸せに見えるが、読み進めるとそうとは思えないのがこの本の仕掛けだ。そして、私はこの二番手に見える美紀にあまりにも状況が似ていた。


都会への憧れと絶望

美紀は漁師の家に生まれ、自ら勉学に励み慶応大学に合格して上京し、大学生活を送るものの金欠で中退。その後水商売を経てそこで得たコネを使ってIT企業に就職する。かくいう自分は実際こんなにドタバタでもないのだが、私も漁師の家に生まれて上京し大学生活を送る。退学をすることは四年の今さすがに無いけれど奨学金の返済で頭がいっぱいなあたり、お金を持ち何不自由ない経済面を持つ家庭で生まれ自分のアルバイト代は自分の欲しいものに全部使えるような大学生を見る目も必然的に彼女と似たようなものになる。

田舎で育ち、周りには何も無い。テレビで紹介される店は東京ばっかりだしそんなもん紹介されたって行けない。朝の情報番組でお天気キャスターが関東の天気予報を、晴れの日はまるで楽しそうに、雨の日は気の毒そうな声で”お伝え”しているその時間、田舎の天気予報は雨雲レーダーがモザイク調に横に流れ声のないBGMの音楽と共に都会と異なる時間を埋める。あまりにも淡白で、「田舎の天気予報は誰かが声に出して教えてくれることだって無いのか!」と、まるで別世界で見えなくて越えられない線がくっきりとそこにある感じがどうしても嫌だったから私は天気予報の時間が本当に嫌いだった。お昼の番組だって紹介されるのは都会にしかないホームセンターの商品や大型ショッピングセンターでのファッション情報、都会でやってる期間限定の展示会。まるで都会の人のためにテレビもあるみたい。見れば見るほど都会への憧れは強くなって、こんなに楽しそうな場所に行けないのが辛くて田舎を悔やんだ。周りの同級生のほとんどは地元の近くの大学を選んだけど、私は東京以外の選択肢なんてなかった。

無意識だったけど、今思い返すとこんなにも日常の中で都会に憧れる瞬間があったのかと自分に少し驚く。だからこそ都会に憧れて、都会の人に憧れて、私は”自ら”この道を選んだのだ。


自分で選んだセカイがある人

田舎が嫌で東京に来た。田舎特有の習わしもコミュニティーも、車じゃないとどこにも行けない縛りも。ファッションが好きだったから学校も被服科を選んだ。好きな漫画の主人公が侍だったから剣道やったし、アイドルが好きで踊ることをどうしてもあきらめたくなかったからダンスを始めた。どれだけつまらなくてしょうもない理由だったにせよ、今振り返ると私は自分の道をちゃんと自分で決めてきたのかもしれない。それはもちろん親がそれを許してくれる人だったからそれをしやすかった。そのおかげもあって私は何を持たずとも、自分で選んだセカイだけは持っている人間だ。

田舎特有だと思っていたこの狭さ、この本を読むとそれは憧れの街・東京でも変わらずそこにあることを知って驚いた。上流階級に区分されるからこそ将来が決まっていて、付き合う人々も良いと言われる場所も。決まり切っていて、こんなに大きいと思っていた東京を初めて狭く感じた。

このストーリーに出てくる人は都会の人と田舎の人、じゃない。自分の道を自分で決めた人か、そうでないか、だ。

『あのこは貴族』というタイトルは、憧れで上品で誰もの上に立つ誇り高き貴族、そして貴族だからこそ貴族になる以外の道を与えられてない窮屈さを物語っているのだと読み終えた後に思う。


普通とか、幸せとかって一体何なんだ。

私はこの本を読み終えて、華子の憧れでもあった時岡美紀に境遇も心持もすごく似ていると我ながら実感した。そして美紀が持つ華子への憧れにも非常に共感した。

私はどこか美紀同様、華子のように都会のお嬢さんになりたくて、都会の男の子と恋愛がしたかっただけなんだと感じたが、今そのしょうもない憧れが抜けている自信も無い。この本に出てくる幸一郎に強い苛立ちを覚え、果てしない絶望も感じたが、それと同時に「私も結局こういう人を素敵だと感じてしまうんだよな」と自分への呆れも感じた。

都会と田舎という場所に線を引いているのは紛れもなく私自身だ。それが抜けない限り私はまた彼のような人を求めてしまうのかもしれないけど、彼みたいな人と生涯を共にするのは絶対に嫌だ。結局彼は自分の道を自分で決められない人なのだ。というより、決めたいのに決められない。生まれながらにして自分の将来が決まっていて、それに絶望感を抱きつつもその現状を変えることもできないし、わざわざ苦労してまで今持つ裕福な環境を捨てる必要がどこにあるんだと感じる幸一郎のやるせない気持ちもなんだか痛いほどわかる。そして、そこに自覚があるからこそ彼のような人は人間として変わることは不可能で、そうさせてるのは彼自身はもちろんだがそれを取り巻く環境が大きく影響している。仮に彼が変わりたいと思っても、環境はなかなか変えられないから結局のところ難しい。「人としてこういう部分さえ変わってくれたら…」とか、「この人がもっと幸せになるためにこういった部分に力を注いであげたい!」とか、淡い期待を抱いていた私がそもそも間違いだったのかとなんだか絶望感に苛まれる。

普通に大学に入って、普通に就職して、普通に結婚して子供を育てて生涯を終える。この「普通」は、人によって基準が違うもので、これにまたお金や出身が絡んできたりすると嫌気がさしてしまう程難しい概念だ。

違うからこそ、自分の道を自分で選んだ私が偉いとは一つも思わないし、そうではない人間になりたくないとか、選べる私は強いとか本当にそんなことは微塵も思っていなくて。むしろそれに耐えながら人生を歩む人は心が押しつぶされそうになりながら生きていたりするのかと思うと、自分はどれだけ自由で子供なのかとも感じる。それぞれ違うものだからこそ、こっちの方が偉いとか有利とかって、本当に無いしそういうことを考えることこそが無駄なんじゃないかと思う。

私から見ると幸一郎と結婚した華子よりも、幸一郎との関係を断った美紀の方がかっこよく幸せに見える。それでも世間的には華子の方が幸せそうで、なんやかんやでそれってつまり華子の方が幸せなんじゃないかとか思ったりすると、幸せって一体何なんだろう。

自分で自分の好きな道を選ぶ幸せ、人になに不自由なく作ってもらえる幸せ。それぞれの幸せを作るには、何かを捨てなくちゃいけないのだろうか。

東京は私が生まれた”クニ”よりずっと小さい。なのにこんなにもキラキラしていて、こんなにも行きた場所と行ける足がある東京は私の”クニ”の何倍も広い。だけど蓋を開けてみればやっぱり狭い。だからと言って田舎はだだっ広いだけで、どこもかしこも無駄に駐車場の広いコンビニばかり。停めているのはせいぜい子供の送り迎えをする父母くらい。

私が追い求める私になれたとき、何をどう感じているのだろう。何が普通で、何を幸せに感じるのだろうか。

幸せや普通って、結局その人の中にしかない。だからこそ自分が本当に思う幸せや普通や、楽しいという気持ち、”自分自身”を信じることが何よりも大切なんじゃないかと、”庶民”の私は感じたのである。

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