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【連載】「東京」文学散歩 第2回/森鴎外が書いた上野・不忍池と無縁坂
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もうすぐ3月だけど、めちゃくちゃ寒い。東京はいまだに冬です。冬といえば渡り鳥、渡り鳥といえば森鴎外の『雁』ですね。渡り鳥のいる時期に読むのにぴったりの小説です。
みなさんのところにはどんな鳥が渡ってきますか。最近はそれほどみられなくなりましたが、かつて東京には雁が多く飛来したそう。雁が東京の空を飛んでいた時代を描いた『雁』を片手に文学散歩に出かけます。
『雁』作品解説
作品の舞台は1880(明治13)年。内閣制度や憲法もまだない、日本が近代化に向けて急ピッチで体制を整えていた時代です。『雁』のあらすじはこんな感じ。
下宿先を共にする「私」と岡田は東大医学部に通う学生。岡田の日々の散歩道である無縁坂には、貧しさゆえやむなく高利貸しの妾として暮らすお玉という美しい女性がいた。次第に岡田に心惹かれていくお玉だったが、気持ちを言葉にできないまま時が過ぎ、やがて岡田に留学の話がまとまる。些細なきっかけでタイミングの歯車が狂い、二人は永遠に結ばれることなく終わりを迎える。
一番の見どころは二人のじれったさ。やきもきしながら二人の恋路を見守りましょう。
【無縁坂】幸薄ヒロインお玉、妾になって移り住んだ湯島
上野公園の西側の、かなり狭い範囲で進行する『雁』の物語。作中で一番印象的なのが、ヒロインお玉の住んでいた無縁坂です。
美人だけど幸薄。生まれてすぐに母を亡くし、高齢で気弱な父と貧しく暮らしているお玉はひどい縁談に乗せられ、末造という男の妾にならざるを得なくなります。この末造、自分で立派な実業家と触込んでおきながら、実際は悪どくケチな高利貸しで性格も最悪です。お玉、別れなよ、と言えるのは現代の感覚で、お玉は年老いた父を置いて逃避なんてできないんですよね。まさにがんじがらめ、今の言葉で言うと「人生詰んだ」状態でしょうか。
末造が無縁坂に家を用意した理由は、本妻にバレずに通いやすかったから。「無縁坂の方は陰気」だと言いつつも、むしろ人目が少なく好都合と考えます。こういうところに人間性って出ますよね。末造、つくづく最低だな!
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今では明るくきれいな無縁坂ですが、昔の岩崎邸の塀は「きたない石垣が築いてあるだけ」だったとのこと。作中には「苔蒸した石と石との間から、歯朶や杉菜が覗いていた」「雑木が生えたい程生えて、育ちたい程育っている」とあります。きっとお玉の家から見える景色は、鬱蒼とした茂みの景色だったはず。
お玉はその景色を見ながら、自分の不運な境遇を半ば諦めつつ、誰かここから助け出してほしいと願います。そのときちょうど坂を上ってきた岡田を目にし、かっこいいのに自惚れた態度のなさにハッとします。岡田はお玉にとって、人生で出会ったことのないタイプの男性だったのです。野暮ですが言わせてください。恋です。お玉は恋をしたのです。
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体格がっしり系イケメンで、仲間からの信頼も厚く、下宿のおかみさんからも一目置かれている岡田。前回の松枝清顕とは真反対だと思って差し支えないでしょう。もちろん末造とも全然違う。自宅に蛇が出たとき、偶然通りかかった岡田はお玉を助けます。いやもう、好きになるやん。そんなん、好きになるに決まってるやん。
それなのにお玉、もじもじしてちゃんとお礼ができず「一体わたしはあの時なぜ声が出なかったのだろう」と考え込むんですよね。お玉、それが恋なんだよ! 恋してんだよ!
【無縁坂周辺】岡田の定番散歩道「不忍池→上野→広小路→仲町→湯島天神→臭橘寺」
無縁坂を岡田が通ったのは、そこが彼の定番の散歩道だったから。
主人公・岡田の散歩道も確認しておきましょう。二つあるという散歩コースのうち、お玉の前を通るのが次のルートです。
「寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。それから松源や雁鍋のある広小路、狭い賑やかな仲町を通って、湯島天神の社内に這入って、陰気な臭橘寺の角を曲がって帰る。しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある」
もう一つは赤門から本郷通り経由のルート。こっちは話に出てこないので端折ります。私は二人の出会いを楽しみたいのです。
冒頭、岡田の住まいは「東京大学の鉄門の真向いにあった、上条と云う下宿屋」と明かされています。東大といえば西の赤門が有名ですが、南に位置するのが医学部側の「鉄門」で、目の前の道は無縁坂に通じています。
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この下宿を出て無縁坂を降りれば、一直線に不忍池へ辿り着きます。
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不忍池を左回りに迂回し、向かうは広小路、仲町です。
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岡田は古本屋を覗き、日によってはこの辺りで散歩を終え引き返します。そうでない日は湯島天神、臭橘寺まで足を延ばします。
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作中、「陰気な」と言われていた臭橘寺へは湯島天満宮から五分ほど。賑やかな通りや社内を通ってきたので、陰気というよりは急に静かになったことで空気がひんやりしている感じです。
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角を曲がってしばらく行けば、下宿のある鉄門まで円を描くように戻れます。
【不忍池・蓮玉庵】運命を決めた不忍池の雁。作中の蕎麦屋「蓮玉庵」は現存
気になるのが、岡田がお玉をどう思っているかですよね。
岡田はあるときお玉がいつも家の前にいることに気づき、「空想の領分に折々この女が闖入して来て、次第に我物顔に立ち振舞うように」なってます。「女は自分の通るのを待っているのだろうか」「それともなんの意味もなく外を見ているので、偶然自分と顔を合せることになるのだろうか」と考え始める。いや岡田もお玉のことめっちゃ気になってるやん。まんざらでもない感じやん。
末造から略奪、駆け落ちへの期待が高まる中、二人に運命の決定を与えたのが不忍池の『雁』です。
あるとき、偶然にも末造に出張の予定が入ります。お玉、絶好のチャンスです。岡田とじっくり話すなら末造が来ない今日しかありません。そわそわして、岡田と喋るために髪結(今でいう美容院)にまで出かけます。かわいいな、お玉。
しかし夕方、無縁坂にやってきた岡田は友人である「私」を連れていました。今日に限って一人じゃなかったのです。落胆するお玉ですが、まだ帰りのチャンスがあります。しかも「私」は一目見て、二人が恋し合っていることに気づきました。お玉大丈夫、まだワンチャンあるぞ。きっと「私」は空気読んで岡田を一人にしてくれるはず。
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ここで二つ目の「今日に限って」が。岡田と「私」は不忍池で偶然、級友の石原に会うのです。なぜか石原は、雁に向かって石を投げろと言います。
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雁を驚かして逃そうと岡田は石を投げますが、運悪く一羽の雁に命中してしまいます。殺す気なんてなかったのにと思う岡田と私に向かって、石原は雁鍋にしようと言い出しました。石原、急に出てきたくせに自由な奴です。
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夏ごろまで「一面に葦が茂っていた」不忍池は、秋から冬にかけて「葦の枯葉が池の中心に向って次第に疎になって、只枯蓮の襤褸のような葉、海綿のような房が碁布せられ、葉や房の茎は、種々の高さに折れて、それが鋭角に聳えて、景物に荒涼な趣を添え」るようになります。この辺りは今も昔も同じよう。
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結局、無縁坂へ石原と雁鍋用の雁を伴って戻ってきた岡田。人数増えてるし、なんか雁持ってるし。お玉は声をかけられず、その後岡田は留学へ。この日、もし声をかけられていたら、二人の運命は変わっていたのかもしれません。人生って、そんな瞬間の連続です。
作中には繰り返し出てくる一軒の蕎麦屋があります。「その頃下谷から本郷へ掛けて一番名高かった」と言われている「蓮玉庵」、なんと現存しているんです。
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蓮玉庵、今の場所に移る前は一本向こうの不忍池に面した通りにあったそう。
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岡田と「私」、もちろん森鴎外も食した蕎麦をいただいて今回の文学散歩はおしまいです。
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将来を約束された岡田と、悲痛な人生を送るお玉が、人生で一度だけ交わる無縁坂。東大生が下宿し、坂を降りれば不忍池があり、冬には渡り鳥がやってくる。『雁』はそのロケーションなくては成り立ちません。
「ここじゃないと成り立たない物語がある」ってすごく面白い。そんな思いで私はまだ見ぬ東京を歩いています。
次回もお楽しみに!
文/山本莉会(編集・ライター)
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山本莉会(編集・ライター)
https://x.com/yamamoto_rie
大阪出身。都内の編集プロダクションで働く傍ら、仕事の空き時間に文学散歩にいそしむ毎日。主なフィールドは日本近代、好みは戦前。文学における初恋は芥川龍之介『トロッコ』
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■山本莉会監修:東京文芸旅行社