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『「嘘をつく」とはどういうことか──哲学から考える』は仕事の役に立つか?


前置き

 たいそう優秀だなあと思う同僚がいるのですが、先日その人が、隣の席で『現代現象学:経験から始める哲学入門』を投げ置いている私にいろいろと質問をしてきました。
 今までの経験上、本を持っているときにつっこんでくるのは、たいていの場合マネジメント層です。(そういう点でも、まだ管理職じゃないのに思考が似ていて向上心のある同僚だなあと思いました。)しかも私が持っているのは大体が仕事に関係のない哲学関連の本なので、必ずと言っていいほどこういう質問をされます。
 「哲学好きなの? どんなところが面白いの? おすすめの本は?」
 こういうとき、めっちゃくちゃ困ります。
 困り果てた末に考え出した私のお決まりの返答がありまして、それは「ええまあ。でも哲学と言ったって趣味ですから、ほとんど小説と同じ娯楽ですよ。」というやつです。
 なぜこうなったかというと、ビジネス上のアイスブレイクの話題としては哲学は不向きだからです。
 「ええそうなんです、國分功一郎の新作なんですけどね、スピノザは詳しくなかったので難しくて……」とか言おうものなら、えっダレ? スピノザ? って哲学者の名前なの? とかから始まりますし(実話)、こっちはスピノザがわからないから読んでるのに、かみ砕いて初学者に説明なんてできるわけないですから、言葉に詰まります。そもそも相手が求めているのは哲学の詳しい説明じゃなくて、「小難しい本を読んでいる私」の情報か、「ビジネスに役立つ自己研鑽」の情報なので、そこを見極めて対応するようにしているわけです。
 ここで冒頭の同僚の質問に戻ります。同僚はおしゃべりが好きな人なので割と長く質問攻めにあい、現象学が何なのかを自分なりに説明したのですが(そしてすかさずChatGPTに「現象学」と打ち込む同僚)、話の流れとしては今までと似たり寄ったりでした。しかし、ある一点だけ大きな違いがありました。
 「……なるほど、そういう学問があるとは知りませんでした。でも私が興味があるのは、結局のところ、その”現象学”が仕事にどう役立つかということですね。」
 ズバッと直球で、哲学、何それおいしいの? と言われたのは初めてのことでした。
 確かになあ、と思って、「私にとっては娯楽ですよ」と言いながらも、「まあ、誰にでも訪れる身近な経験から、論理的に妥当な結論を積み上げていくトレーニングにはなりますね」とかなんとか言ってお茶を濁したのですが、それ以来ずっともやもやしていました。
 なぜなら、私の人生にはどうしても哲学の本が必要であり、そして生きたいように生きて得たスキルを使ってしか仕事をこなせていない自覚があり、つまるところ哲学が仕事に活きているとしか言いようがない日々を送っている実感があるためです。
 しかしそれをうまく言語化できない。今までもできていなかったけれども、言語化できないというのは私にとっては重大なことだと思い出したのです。
 そんなことを考えながら、ヒントを求めて『現代哲学』や『零度のエクリチュール』を改めて読み直していたところで、某氏から出版の一報が入ったのが、今回の『「嘘をつく」とはどういうことか』でした。
 新書のため職場近くで簡単に手に入り、しかも高校生向けの読み物だったのもあって当社比爆速で読み終わったのですが、タイムリーに、そして超鮮やかに私のこのもやもやを倒してくれたので、考えを整理するために思うことを書こうと思います。
 正直なところ、職場で哲学が役に立つかどうか物珍しそうに聞かれるのはもううんざりなので、ああ、こういうの読むタイプなんだね! と一般に思われるくらいにはこういう本が普及してほしいのです。

基本情報

書名:「嘘をつく」とはどういうことか——哲学から考える
ジャンル:
哲学・倫理学
著者:池田喬(いけだたかし)
レーベル:ちくまプリマー新書
刊行日:2025/1/8
ページ数:240ページ

この本は仕事の役に立つか?

役に立つ!……のか?

 早速ですが、結論、この本は仕事の役に立ちます。
 ……と言いたいところですが、そんな風には言い切れないです。というのも、仕事は人の数だけあって人それぞれだからです。しかも私のような仕事にあまり前向きではない人間にとって、偉そうに役に立つとか、怖くて断言できません。
 しかし、私一人にとってしか役に立たない、とまでは言えなさそうです。そこで、こんな仕事でこんな悩みがあるなら役に立つかも、という話をします。
 もし合致する人がいたら、次の「どんな本?」に進んでください。 

仕事って何

 星の数ほど仕事はあるかと思いますが、必ずついてまわるのはコミュニケーションでしょう。そして大概が言語を介したコミュニケーションかと思います(口頭、文章問わず)。
 仕事上の言語コミュニケーションにも濃淡があって、最低限のやり取りで問題ないケース(内職など)や、言語に特殊ルールが課せられているケース(士業の専門用語や安全管理の呼びかけなど)、一言二言が大事になってしまう場合(契約締結やカウンセリングなど)もあると思います。また、仕事上のストレスの大半が人間関係(≒言語コミュニケーション)とも聞いたことがあります。
 この本を読むと、言語と行為がどう直結しているか、我々が言語を巧みに用いながら、何を意図し、他者のどんな行為を引き出しているのか(あるいは引き出されているのか)の解像度が爆上がりします(=言語行為論)。
 たとえば仕事上、言語コミュニケーションが必須の場合、こんな悩みはないでしょうか。
 部下に何かをしてほしいが、うまく指示できずに伝わらない、とか。
 上司が何を求めているかわからなくて、いつも失敗する、とか。
 意図せず傷つけてはしまわないかと怯えて、同僚と仲良くなれない、とか。
 きちんと説明したはずなのに、顧客が手のひら返してくる、とか。
 この辺りの悩みは、言語コミュニケーションの濃度が高く、生産性に直結する業務であれば一般的にありそうなものです。これらの悩みはすべて、「言語行為論」を知る前と知った後では、輪郭のシャープさに違いが出るはずです。
 特にリモートでも仕事をするようになってから、言語コミュニケーションの純度が高まっているのを強く感じています。チャットツールでのコミュニケーションと出社してのコミュニケーションがどう同じでどう異なるのか、いろいろ巷で言われてはいますが、元来、言語行為と身体性の密接なつながり(=言語ゲームと生活様式)がどんなものか気になる人にもお勧めできます。直接答えが書いてあるわけではないですが、「つべこべ言わずに、現場で先輩の仕事を見て盗めよ!」だけでは納得できない人には、言語ゲームの話はヒントになるはずです。
 また同様の切り口だと、意外かもしれませんが、LLM(大規模言語モデル)を使いこなすプロンプトエンジニアリングにも役立ちそうです。結局のところ、部下に指示するのとLLMにプロンプト投げるのとでは本質的な部分は変わらないと思うので(意図せず上司にハルシネーション見せてる不安すらある。知らんけど)、LLMツールを、決して出社してこない超天才大型新人だと思えば、我々の唯一の武器はもはや言語への深い理解しかありません。

役に立つって何

 ところで役に立つって何でしょう。
 私が役に立つと思う場面といえば、蓋にトングがついているタッパーから漬物を取り出すときとか、九龍妖魔學園紀の攻略サイトで「皮の鞭」を早めに横領すると楽だと知ったときとかです。
 そういう場面以外ではなかなか「役に立つわぁ~」と実感はできないものですが、時折、仕事中に趣味の哲学がじわじわと役に立つことがあります。それは「要約」「アナロジー」を使う場面です。
 新人の頃から文章の要約が鬼速いことによく驚かれました。今どきはCopilotとかが会議の要約もやってくれますし、まあ直接的には要らないんですが、やはり物事の要点をある程度押さえられるというのは、コミュニケーションコストを削減するためにも重要です。要点を押さえるためには、相手がどんな背景で、どんな意図をもって発言しているのか? というのが最重要事項になります。
 また、「アナロジー」も同様です。相手が以前どんなことを言ったか、どんな暗黙のルールがあるのか、それはどのような帰結をもたらしそうか、そういったことを類推してコミュニケーションを補完します。特にソフト面での配慮というと、相手の立場に立って想像力を働かせることが重要です。
 哲学関連の本を読むと、言葉の意味をいったん極限までバラバラにして、前提の前提の前提から詰めなおし、再度積み上げていくようなやり方がよく見られます。そして、身近な事例から地道に積み上げた様々な論者の議論が発展していき、誰もこれには反論できないやろ? とドヤられるほど(?)にガッチガチの論理武装を誇っても、思わぬ鋭い論点からあっさりとひっくり返されたりします。そういうことの繰り返しを眺めていると、物事には多様な背景があり、それこそが多角的な視点とよりよい妥当な結論につながることが”わからせ”られます。前の説を心から信じていた自分は、すぐに次の有用な説にそれはもうボッコボコに殴られて、ぐうの音も出なくなる。すなわち、自分が一見して信じられることでも、まず足元を見て、周りを見て、あらゆる視点を想像しながら粗がないか見つめなおす癖がつくわけです。そしてその癖がつくと、背景を分析して本質を抽象化し、要点をつかむことの訓練を自然にやっていることになるわけです。
 しかしこういうことを言うと、そんな抽象的なハナシが実践的に役に立つのか? という疑問が頭をもたげてきます。つまり、しょせん机上の空論でしょう、とか理想論でしょう、などと、ピシッとスーツをキメたメガネの青年がフレームをクイッとしながら冷笑してくるのです(脳内妄想で)。
 なんと驚くべきことに、この本では「哲学が理想を語るとはどういうことか」を説明しています。「理想」とは「理念」であり、単なる絵空事ではないこと、そして「理念」を持つことこそが、今ここで我々が生きる現実世界に新たな物差しを与えてくれると説いています。この辺りについては後ほど書きます。

仕事につながるキーワード

 結論、この本では「言語と行為がどう直結しているか(言語行為論)」「言語行為と身体性の密接なつながり(言語ゲームと生活様式)」「抽象概念の実践的側面(哲学が語る理念)」について知ることができます。しかもめちゃくちゃ平易な言葉で、です。それなのに隙が無く、やんわりとガン詰め(?)されます。
 「嘘の本」なのにここまで嘘の話をしませんでしたが、もちろん宣伝されている通り「嘘をつく」とは何か、それでもなぜ人は「嘘をつく」のか、そして誠実であるとはどのようなことかもわかります。ただしそれは、ビジネス上の「嘘」や「誠実さ」とはかなり毛色の異なるものです。そもそも、ビジネス上の「嘘」を正面から殴りに来ているとすら言えます。でもだからこそ、反論する気持ちで読んでみてほしいです。ボコられる役に立つから!
 シンプルに「嘘の本」として捉えると、こういう本に慣れていない人はびっくりしそうなので、これは嘘という題材を使って人生と哲学(倫理学)を実践的に結びつける本だとでも言っておきます。そしてさらに言えば、本の構成や語り口から、哲学の(そして著者の)ロジカルな性格がよくよくにじみ出ているので、理路整然となにかを話したいとか、わかりやすく物事を伝えたいとか、そういうニーズにも大いに応えているサンプルだと思います。高校生向けとはいえ侮れません。むしろ、平易な日本語なのに、噛み砕いて説明しようとすると難しくてできないぞ……の嵐です。著者のひと、頭よさそ~(という頭の悪い感想)。

どんな本?

これを読めば「嘘をつく」の定義がわかる!……のか?

 さて、あまりネタバレにならないように(?)どんな本なのかの概要と、哲学本に慣れていないビジネスパーソン向けの読み方を書いてみます。
 第一章では嘘をつくことの言語哲学上の標準的定義と、本書での独自の理解が並べられています。

「AがBにpだと嘘をついた」は次のように定義される:
(1)AがBにpだと言った
(2)Aはpが正しくないと思っている
(3)Aはpだと言うことにより、Bをだましてpだと思わせようと意図した

『「嘘をつく」とはどういうことか——哲学から考える』p41

L:嘘をつくことは、相手を騙そうと意図して、自分が真であると信じていないことをあたかも真であるかのように、平叙文で言うことである。

『「嘘をつく」とはどういうことか——哲学から考える』p40

 前者が標準的定義で、後者Lが本書の独自理解です。
 すでにここでビビる人もいるかと思いますが安心してください。大したことは言っていないのでわからなければ先に読み進めてOKです。全部この先で著者が平易に説明しています。
 ここでポイントなのは、Lでは「あたかも~言う」と表現し、嘘をつく行為に対して身体性・演技性を付け加えている点です。これが本書の特徴であり、机上の論から離れようとする気配がすでに感じられます。
 そして嘘に対して、冗談、皮肉、サプライズパーティー、自己暗示などを比較検討し、嘘とどう違うのかを説明します。もし今考えてもこれらの違いがわからなければ、おおよその答えが本書に書いてあります。

 嘘をつくとは何かの輪郭が”おぼろげながら浮かんできた”ところで、第二章では「善意の嘘」が悪いことなのか、という重要なトピックに入ります。ここでは、善意の嘘が閉じてしまう対等性の可能性が示唆されています。
 「善意の嘘」とは、良かれと思って心にもないことを言うことです。料理がおいしくなくても、作り手の前ではおいしかったと感想を言うとかですね。本書では善意の嘘を言いたくなる場面でも、嘘をつく必要がない場合がほとんどであると述べています。

 そして最後に、それでもなぜ我々と嘘は分かちがたく結びついているのか、そんな嘘がもたらす自分らしさの毀損について第三章で述べられます。人間は言葉の獲得と同時に嘘のつき方を覚えていき、嘘をつける能力を持つからこそ対等に尊重すべき存在になること。また、嘘をつくことが自分自身にも痛みをもたらすこと(ほらあの作品のあの人も大切な人を裏切っては苦しんでいたよね……※1)、誠実であることは他者との対等性を維持するだけでなく、他者と同じように自分も大切にするためには必要なことであると説いています。

 これらの内容は特別目新しく感じないかもしれません。しかし、これらの当たり前と思える事柄の隙間を「言語行為論」や「言語ゲーム」でのりづけしています。この辺は本書のミソなので、1,000円くらいの新書ですし読んでみてください。
 途中いくつか断定しない記述があってもどかしいとは思いますが、論旨は概ね首肯できるものと思います。


 ※1 みんなの心の中のあの人のことだよ(例を出した瞬間に突然のネタバレトラップになるからね)

読み方のススメ

 ここまででそれなりに嘘について興味を持てたとしたら、私が読みながらもやもやしたポイントを先に述べてみます。これを踏まえておくと、めげずにすっきり読めるかもしれません。

 一つ目が、誰にでも嘘をつかないなんて無理じゃないの? という疑問。
 これは先述した理想と理念の話として途中で出てきます(p152~)。途中で説教臭く感じてもやもやしてきたら、いったん中断してここから先に読んでもいいくらいです。
 結論から言えば、誰にでも嘘をつかないなんて無理なのです。ただし、倫理学的に明らかになった道徳的理念を以て現実世界を照らすことには一定の意味があると説いています。嘘は悪なのだから何人たりともついてはならぬ、ではなく、嘘より誠実さを取ることで、お互いを尊重するより良い世界が見えてくる(場面もある)と言いたいのです。対話を積み重ねることに重きを置いた本書らしい主張と言えます。

  二つ目が、そうは言っても建前って大事じゃないの? という疑問。
 これは第三章で誠実さを説く際に、徳の倫理的に説明されています。嘘をつかないことは単にあけっぴろげであることとは異なり、社会に迎合せず自分らしさを失わないまま正直に生きることです(p212~)。不用意に失礼な発言をしないことと、オープンに対話することは両立すると述べられています。
 この辺りは私も正直なところ懐疑的です。なぜなら、あけっぴろげであることと自分に正直であること、または社会化された自分とありのままの自分が、きれいに分離しているとは思えないからです。

 三つ目は、書き言葉の演技性について十分に語られていないのではないか? という疑問です。
 p45-46に書き言葉の演技性について言及されており、実際にその言語を生活の中で取り扱っている人でないと不自然さが必ず現れると説いていますが、これはやや楽観的すぎるように思えます。
 今どきのコミュニケーションにおいて書き言葉の重要性は重みを増すばかりです。インターネットにあふれる書き言葉が次々とストックされてはボーダーレスに再拡散されています。
 確かにまだディープフェイクレベルであれば「不自然さ」によって太刀打ちできますが(逆に言えば違和感しか武器がない)、書き言葉はもうそろそろ人間の検知能力を超えたものが「作れる」と言わざるを得ないでしょう。
 ただし、書こうが言おうが論旨としては一致する内容が多くあるため、留保して読めそうです。

 ちなみに、こういう本を読むときには留保して読むことが肝要です。かくいう私も苦手なのですが、読みながら脳内反論しまくっても最後に鮮やかに返り討ちに遭うことなんてザラなので、自分を信用しすぎないようにしましょう。相手はプロですので。
 また、物事を断言してくれないことが多いため、じれったく思うかもしれませんが、それは信用に足る書き手の証でもあります。最後に辿り着く結論に納得できなければ自分で断言できる論を展開しましょう。議論の材料はほとんどの場合、書き手と同じだけこちらにあるのですから。

「嘘をつく」を解き明かす3段構成~What, How, Why

 視点を変えて、この本の構成の面白さに着目してみます。章立ては下記の通りになっています。

第一章 嘘をつくとは何をすることか(What)
第二章 嘘をつくことはどう悪いのか(How)
第三章 それでもなぜ嘘をつくのか(Why)

『「嘘をつく」とはどういうことか——哲学から考える』目次より
()内は執筆者の解釈です

 これら三章がほぼ同じ分量のページでバランスよく配分されています。(各章の紙の厚さがほぼ同じなのおもろいな~と思いながら読んでました。)
 本書の「あとがき」にもあえてこの三部構成にした旨の記載がありますが、Howだけでなく、What/Whyにも同等の重みを持たせて論じることで納得感が増していると思います。
 それだけではなく、取り扱う事象が何であるかを明らかにし、その事象がなぜ悪いのかを説明することは自然な流れだと思いますが、その後に「それでもなぜ悪いことをするのか」を取り上げたことが本書の特筆すべき点だと思います。

 第三章で述べられている、「規則を知るには規則を破らなければならない」言説はとても興味深いです。嘘をつくことと言語規則の獲得を同一化し、そこに嘘の役割を見出す鮮やかさ。つまり、誰でも嘘をつくものだと足場を読者と共有しているのですが、それがさらに理想を掲げた生き方につなげる土台になっているわけです。
 単なる事象の説明にとどまらず、一見関係ない事柄を読者自身に引きつけて考えさせる倫理学の妙を体感できるなという章立てだと感じます。
 ただし流され(?)る必要はありません。筆致が鮮やかなせいで忘れそうになりますが、自分なりに落とし込んだ具体例で説明しようとすると、腑に落ちない事例もありそうです。
 そのあたりは長くなったので、補足記事↓で書いています。

 なかなかここまで長い文章を作ることはないでしょうが、相手に訴求する書き方としては参考になりそうな構成だと思います。

後書き

 ダラダラと書いていたら長すぎて、ここまで読める人には別に解説もいらないのではという気がしてきましたが、時すでに遅し。まあほとんど読書メモだから(言い訳)。。。
 ちなみに冒頭で書いた同僚はちゃんと、「今度現象学の本読んでみますね」と言ってくれました。「善意の嘘」かもしれないけど。

 おわり。

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