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【補足】『「嘘をつく」とはどういうことか──哲学から考える』は仕事の役に立つか?の追記
前置き
こちらの記事を読書メモ代わりに書いていたのですが、役立つかどうか、そしてビジネスパーソンならどう読むかの視点で書いていたら、やたらと褒めちぎることになってしまい(いやちゃんと本心からのことを書いていますが)、個人的に読んでいてもやもやしたところを入れられなかったので、本当の読書メモとして気になったところだけ外出しして書いてみます。
基本情報(前と同じ)
書名:「嘘をつく」とはどういうことか——哲学から考える
ジャンル:哲学・倫理学
著者:池田喬(いけだたかし)
レーベル:ちくまプリマー新書
刊行日:2025/1/8
ページ数:240ページ
地に足の着いた倫理の先に、やさしい世界を信じられるか?
道徳的理念は物差しのように使うべきなのか
前回記事の「読み方のススメ」で書いた内容と同じことをもう少し踏み込んで書いてみます。
まず、誰にでも嘘をつかないなんて無理じゃないの? という疑問について。本書では、誰にでも嘘をつかないなんてのは実際には無理だが、倫理学的に明らかになった道徳的理念を以て現実世界を照らすことには一定の意味があると説いています。数学的概念と同様に、道徳的理念を物差しのように現実にかざしてみることで、新たな視点で世界を見ることができるというのです。
しかし、この道徳的理念をどのタイミングでどう使うべきかという点では回答がないように読めます。恣意的に理念を振りかざす恐れはないのか、正しく理念を理解していればダブルスタンダードは起こり得ないのかというのが気になります。
もちろん本書で言いたいことは、道徳的理念が現実世界で常に適用できるものでなくても、道徳的理念自体に何ら問題がないことのみであるのは明らかで、回答が無くてもいいのですが、私はもう少し道徳的理念に期待してもいいのではないかと(直感的には)思っています。前回書いたことと矛盾するようですが、「役に立つか」どうかというよりも、一定の道徳的理念を掲げずに生きていくこと自体に不道徳があるように思えるほど、現実世界は私にとっては悲惨に見えることがあるのです。
建前と誠実さは両立しないのか
二つ目が、そうは言っても建前って大事じゃないの? という疑問でした。不用意に失礼な発言をしないことと、オープンに対話することは両立するのでしょうか。
あけっぴろげであることと自分に正直であること、または社会化された自分とありのままの自分が、きれいに分離しているかが私にはわからないです。
嘘をつくことが求められる社会(≒仕事環境)では、建前と正直さが複雑に絡み合い、仕事上の利益を守りさえすれば他者に踏み込まれない、心地の良い距離感が生まれることがあります(※1)。それはある種の楽園であり、吹けば飛ぶような危ういバランスではあるものの、不用意に他者を傷つけないために一定求められているように思います。そして重要なこととして、そういう場では嘘をつかないことは前提とされていないと思います。
ただし、真の意味での誠実さがもつ対話の可能性と、建前を盾に(仕事上の利益を守れる立場の既得権益者だけが)得られる安らぎを天秤にかけたとき、どちらがより豊かな世界を目指せるか、という話ではあるかなと思います。
とはいえこの辺りは黙ってボルノーを読めばいいんでしょうが。
※1 休暇事由や飲み会を断る理由に嘘があっても大抵は問題ないのではないでしょうか? 一度きりの研修のグループワークで積極的な自己開示は必要でしょうか? すべてを正直に言うべき空気が生まれると、プライベートを覗かれるような不安な気持ちにはならないでしょうか?
不都合な内実を隠すことや耳触りのいいセールストークがあることは互いに織り込み済みで、言質を取るための文言を契約に入れ込んだりしませんか? 多かれ少なかれ、顧客をヨイショしない営業活動があるのでしょうか? すべて理解したうえで、顧客のためにできることを尽くすことで初めて信頼関係は生まれないでしょうか?
これらは本当に不用意に失礼なことを言わずに、オープンに対話しているケースと言えるのでしょうか? そうでないとしたら、オープンに対話すべき状況なのでしょうか? あるいはこれらの状況でも、事実に反することは黙っていれば済むのでしょうか?
書き言葉は否が応にもデータ化される
三つ目は、書き言葉の演技性について十分に語られていないのではないか? という疑問でした。
ここは前回書いた通りですが、文字が世に出た瞬間からデータ化して蓄積される流れは止められないと思います。容量より問題になるのは電力の方だと言われているくらいですし。
サンプルデータの恣意性や生成される言葉の解釈については人の手による修正が必要だとしても、日常的によく使われる言葉こそ吸い上げられて再生産がしやすいテーマだと思います。チャットボットのような対話型AIは今急速に普及しているところなので、むしろその演技性は先鋭化しているとも言えます。
関係ないですが、人として扱わなくてよいからこそ、チャットボットには悩み相談がしやすいという意見を聞いたことがあり、相手が求めるケアラー的理想像としてふるまうその高い演技性こそ、まさにAIに求められていることなのかなと感じます。
世界はそんなにやさしかったか
最後に、誠実であることが幸せにつながるのかという疑問があります。
嘘をつかずに誠実に生きていけるような地盤がこの世界にあるのかと聞かれたらどうでしょうか。
正直けっこうキツいなと思います。
嘘をついて騙そうとしたところで、相手が自分の意図する行動を起こさないことはよくわかります。ただし、嘘をつかなかったとしても、相手は意図する行動を起こしてはくれないものです。当たり前ですが。
それならば、嘘というクッションを挟みながら他者に近づき、徐々に嘘の濃度を下げる方がしっくりくるのは私だけでしょうか。
対話の可能性を諦めないことと嘘をつかないことの間にも、グラデーションがあるのではないかと思います。
また人と人にはこれ以上近づいてはいけない距離というのもあると思います。その距離を取るための便宜的な嘘というのが必要なときはないのでしょうか。これは死ぬ間際のやさしい嘘のような限界事例ではなく、性質的なことです。
どうしても相容れない考えの人と対話したいとき、そこには誠実さではなく建前が必要な時もあると思うのです。相手の考えを変えるよりも早く、相手の意見を汲んだふりをしてルールを作った方が上手くいくようなときです。
私は弱い人間なので、そもそも対話しに行ったりできませんが。
後書き
うーん、あまりまとまってないですが、一応もやもやを吐き出しておきました。
そ、そういえば、『嘘の人間学』を読まないといけないということを今思い出しました。読まずに書いてよかったのかな。。。いやダメだったかも。
おわり。