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負けても泣かなくなった理由
はじめに
(※画像で出身校が分かってしまいそうですが特に気にしてはいません。不都合なことがある場合にはご連絡をいただければ他の画像に差し替えますのでコメント等にてよろしくお願い致します。)
今回は私が中学二年生から高校三年生まで続けたハンドボール部でのことを書こうと思う。タイトルの内容に直接アクセスすることも可能だがこの機会にできるだけ思い出しておこうと決めたので流し読みしたい方は目次から各々飛んで欲しい。
性格が決断させなかった入部
中学二年生の始まりの時期の授業中に体育の担当教員の先生に誘われてハンドボール部に入った。誘われてというか「何もしていないのなら入部してみなさい」というような今思えば少し強引な誘い方だったと記憶している。頼み事や誘いにはNOと言えない当時の私に決断権はなく、まるでYESかNOで枝が分岐していく性格診断のように私はハンドボール部の見学にいくことが5分で決定した。その後私の通っていた学校では部活動に入部するために入部届などの特別な手続きが不要だったのもあり、見学に行ったその日から私にはハンドボール部という肩書が乗っかった。流されるままに入部してしまうとは自分のことながらなんと安易なことか。
新しいコミュニケーション、新しい関係
中学一年生でのんびりした時間の流れに漂っていた私にとって部活動というものは流れている時間も違えば周りとの関係性も何もかもが違った。そりゃそうだろうと自分でもわかっているのだがクラスメートとも友人とも違う関係性は私にとって大きな衝撃だったことを覚えている。敬語を使う相手が増えたし、別のクラスの教室の空気を知ったのもこの時だったと思う。入部当時の環境を簡単にまとめておくと、一つ上の先輩が三人、同級生は十人近くいるようなバランスの悪い部員構成だった。一つ下の子達も十人近くいたのではなかっただろうか。その人数をまとめていた三人の先輩には足を向けて眠れない。ハンドボールは初心者なのでもちろん一つ下の年齢の部員たちと一緒に基礎練習を行うのだが、この関係性がなかなかに難しい。
所属欲求と承認欲求
「ハンドボール部」という肩書きは何もしないまま背負ったのだが、一緒に練習しているのは一つ下の初めましての集まり。先輩が少なかったという環境もあり同級生はすでにほとんどがチームの戦力に数えられるほどの実力を持っていた。不器用な私は部活中の年下との距離感と、部活外での同級生のチームメイトとの距離感がどうにも心地悪かった。相手との距離感がハンドボールを通している時とそうでない時とで大きく変化しているように感じていた。
チームメイトに認めてもらいたいという気持ちは私にも芽生えてくるのだがその相手が普段から一緒に練習をしていて部活中の時間を多く共有している一つ下のチームメイトなのか、自分よりも先を行く教室で同じ時間を過ごす方が多い同級生の実力者たちなのか、他には私を部活に誘ってくれた顧問の先生に向けたものなのか分からず当時の私は何にも集中できていなかったように思う。この不安定さをかなり長いこと引きずって行くのだがその話が今回できるかどうかは書いている段階では決めていない。
落ち着かない足場
全くの初心者として始めたハンドボールも練習していくことで当然上達していき、人並みにはハンドボール部と名乗っても良い自信もついてきた。ベンチメンバーに登録されたのは大体その時期だった。
嬉しさというものは当然あったのだろうが私には学年のおかげで選ばれたのではというネガティブな考えが大部分を占領していた。ハンドボールは選手交代が何度でも行えるという性質上、試合で大きなリードをとると控えのメンバーの動きを見るために選手交代を行うことがよくある。最長で4日間ほど続けて行われる大会がほとんどなので主力メンバーの疲労軽減のためでもある。
私の初舞台はやけにオレンジ色のライトが体育館全体に広がっているコートだった。
オレンジ色のコート
最近「ハイキュー!!!」をアニメで観たこともありこの言葉の並びは個人的にも印象的なのだが私にとっては最悪の記憶を引っ張り出す言葉でもある。スポーツに関してだけではないが「本番でしか身につかないものがある」とはよく耳にする言葉である。
私の初出場はチームメイトが大幅にリードして折り返した後半残り15分くらいの時間帯だった気がする。心臓が脈打つのが耳元で聞こえ、呼吸は浅くなり血液が頭まで流れているのを感じる。筋肉に各々の役目を確認するように伸縮を繰り返した。私に与えられたミッションは無難にコート上で時間が過ぎるのを待つことだったと思うしそれ以上のことは期待されていなかったはずだ。漫画のような表現だがコートに足を踏み入れた瞬間に日本語がわからなくなった。チームメイトも顧問の先生も何か言っている。ただの音でしかない、空気の揺れとしか認識できないそれは私の頭の中には入らないが時間だけは過ぎていくのが見えていた。次に私が自分の呼吸を確認できたのはベンチに戻ったあとだった。
涙でしか排泄できない気持ち
初出場でチームに負けの流れを呼び込みベンチに下がった。かなり無茶苦茶だった感覚しか残っていなかった。チームには申し訳ない気持ちだったし思春期の少年にとっては自分を嫌いになるには十分な出来事だった。その日から涙でしか悔しさを洗い流すことができなくなった。練習中には楽しい気持ちで満たされているのに、練習試合やチーム内での紅白戦では負けが見えるたびにコートの外や体育館の外に出て泣いていた。中学生にしては泣きすぎだったと思う。母親が車で送迎してくれた時には家に着くまで泣いていた。顧問の先生に「帰れ!」と言われて実際に帰ろうとしたこともある。その時に女子部の先輩が引き止めてくれたのだが今回のテーマとは関係ないので細かくは書かない。
中学最後の大会、中体連には私もベンチメンバーとして登録していてもらった。特別実力がついたわけではない私を経験のためだろうがベンチに入れてくれた顧問の先生には感謝している。大会は一回戦から当時県内でも上4つに入るような実力の中学校が相手だったと記憶している。私の出番は試合がある程度流れた後半だったと思う。その時の試合はかなりの接戦だった記憶がある。間違っていたら相手に申し訳ないが良い勝負をしていたと思う。結果としては一回戦負け、点差が何点だろうと負けたチームに次はない。大会の片付けをしたあとに顧問の先生がチームでの集まりを設けた。私の出た試合では一度も勝った記憶がない。私は自分自身を責めることを一年間やめなかった。
私にとって当たり前でなかったもの
いつもはかなり怖い印象、言動の顧問の先生がチーム全員に謝りながら涙を目に溜めていた。私の通っていた中学は中高一貫の学校だったので高校でもハンドボールを同じメンバーで続けることができる。中学の顧問の先生は勝たせてやれなくて申し訳ない。できれば高校でもみんなで続けて欲しい。というような言葉を伝えてくれた。今更なので笑われるかもしれないが、この時初めて私は勝っても負けても終わりを選ぶのは自分なのだということに気がついた。人に誘われ流されるままにスタートを切った私の頭では流れが止まった時が終わりなんだと認識していたんだと思う。だからこそ負けがそのきっかけになることが怖かったし、チームに必要のない存在だと思われることが自分にとっての終わりだと思っていた。私は結局、このチームが好きだし、ハンドボールというものに自分がどれだけ入れ込んでいるのかということを自分でも正確に認識できていなかったのが原因で負けるたびに泣いていたんだと今になって思う。
「永遠のような時間にも終わりがある」ということを知る。そういった順序で知っていくものだと思っていたが、どうやら私にとっては「いつ終わるかわからない時間にも続きがある」という教訓として心に残ったようだ。この中体連での中学最後の公式戦を終えた後から私は練習試合でも大会だろうと練習中も泣くことはなくなった。中学三年生の時点で高校の部活に合流できるのだが私は自分で続けることを決めた。
ここまでが中学二年から三年の一年と少しの間に起きていた自分ではどうしようもない流れの中で涙を流すことでしかできない私の話であった。
当然高校最後までハンドボールを続けるし、それなりに上達もして毎年年末にはハンドボール部の新年会に参加しているのだが今回はここで筆を置くことにする。記憶の中の昔話を引っ張り出しているのでどうしても「〜と思う。」という表現が多くなってしまったことは反省している。
最後に
読みづらい文章だっただろうが、読んで頂けた方にはこんな思い込みをしている少年が他にもいるかもしれない、学ぶ順番に決まりなどないということはお伝えできていたら嬉しい。生まれた時から諦め方を知っている人間がいないように、続け方を知らない。正しいことがわからない。夢の叶え方がわからない。大事に仕方がわからない。一つ一つ学んでいくのが人間であり、伝えていくのも人間であるということを再認識したい。私たちが誰かの「知らない」を埋める役割を担っているかもしれない。年齢も国籍も性別さえも関係なく誰かに影響を与えることができてしまうということは棺桶に入るまで忘れずに生きたい。
順番が回ってくるのではなくあなたも私も常に伝える立場であるということを考えさせてくれた中学時代の出来事でしたとさ。
おわり。