
リオタール以後
リオタールのシネマでは対象認識を用いて崇高さに至ることになっており、彼の仕事は構造的に、アンチクライスト的に達成したフランス市民革命の戦後処理となっている。
中世の現実では人間が人間であるためには神との契約が必要で、洗礼を受けることで神からセンスを得るとされてきたが、このセンスを神との契約抜きでmake senseに至らせる装置が、戦後のフランス映画であり、ひいてはその難解さの正体だ。
この映画の内容とは、作品の不可解さを通して観客との共同作業によって得なければならない性質を持つ。つまりは、人間から生まれたら人間であるという初期条件を得てからも、フランス的な民主主義は戦後の退屈さがあるということであり、人間と家畜の峻別が、自己飼育にならないように必死なのだ。
リオタールを読むと、シネマによって得られるメイクセンスの瞬間が崇高さに至る過程は、パチンコなどに興じるときのオカルト的な推察に肉薄しており、道具としてはカタルシスの代替でありながら、カタルシスとは異なる仕掛けとして語られており、詩論の建て増しとなっているのはそのためだ。
だから、日本のリオタール研究者が受容の方に懸念を示すのは二重に間違っており、日本はフランスに先駆けてシネマ評論が通俗道徳に至ったことをまずは認めなければならないのだ。
また、筋が不可解なフランス映画からリオタール式な崇高さを得るには必然の中に偶然が必要となる。この崇高さは天啓の代替として、フランス的な個に起こる一瞬のもので、言ってよければ、観客の人生の無内容さを誤魔化すために筋が一見無内容である必要が生じる。しかし、商業的なシネマは容易に芸術からエンタメに戻るため、人間はこれに飽きてしまう。日々を生きる人々は筋のある話に金を払うだろうし、フランス映画を信望するには、通俗映画との対比がなければ存在意義を確認できず、このような難解さのために難解となる必要がある映画は、ゴダールの生前から形骸化しており、もはやバリエーションが豊かではなくなった。
現代ではシネマで書かれているような対象認識の範囲にあった不可解さや断片的なものは映画の外の現実にあり、物事から見いだすべき本質は、もはや近代化を祝福するような非歴史的な平時のもののままではいられない。また、カタルシスに話を戻すと、よくある評論技術における批評対感想の議論ではなく、感想の復権足りうる芸術が、作品を介して強調する、感想だけで完結する現実として存在していないことが分かるだろう。
現代は古代ではない。と言えばそれまでだが、しかし古代ではないところの現代が、未来的ではない退屈なものになった以上、批評はますます感想と同程度のものになるだろう。新規性という価値基準そのものが無意味化し、現代人の思考では感想でも批評足りえ、また、批評を感想の代替とすることも同時に可能だからだ。
形式の中に無内容さを含ませるとことで内容とし、無内容を回避するのがフランスなら、アメリカは完成した形式を提示することが内容となるため、そもそもフランスの思想家が懸念する無内容さがわからない。
イギリスは経験論的な発想で、外部の内容を利用する方策を形式化することが可能となるが、提示が存在しなくなる。
思想の覇権的性質の反映としては、人にやらせて自分はやらないフランスと、やらねばならないアメリカと、やる人にやらせることをやるイギリスとなる。
戦後のフランスは自国の野蛮なデモクラシーを国民精神にするために民主主義を文化にしなければならず、日本でリオタールなどを信望ベースで取り扱うと、大正デモクラシーの問題と天皇論をサボるのに都合が良いのだが、それを自覚するか無自覚かを問わず、断絶の代償として中世以後の認識を構造的に取り扱うしかないため、デカルトを否定するデカルトやヘーゲルを否定するヘーゲルになるだけだ。
なぜかというと、戦後のヨーロッパの思想家は、第一次世界大戦の再来を回避できれば良いのに対して、日本のメジャー思想家は第二次世界大戦と英米主導の戦争しか自身の歴史に持たず、またそれに無自覚であることから、扱う思想家の論理が単なる論理に過ぎなくなるため、理念の責任を国民に押しつけ、最終的に研究する受容者でありながら読者という受容者に学術的に説教すれば良いという、一種の無責任な態度のままでいられるからだ。