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裏・美術手帖(小声)

その昔、たけしの誰でもピカソという番組があったらしく、もっともらしく敵視してみせた美術関係者がいたという(古文書風)。
キャッチフレーズが"勝ち抜きアートバトル"では、いずれ、見せ物だからだろう。
しかし、見せ物であることこそが、近代以降のアートの本当の姿なのであり、かれらが批判したときに刺し違え、返り血を浴びさせてくるのは、なんでも鑑定団もある。
なんでも鑑定団には、直接的な買い手の論理があり、近代美術が物証扱いされているからだ。
たとえば、番組内で値がつけられる岸田劉生や東郷青児の絵画の歴史性は、等しく、坂本龍馬の書画と同じく日本の近代化の物証で、いうなれば富岡製糸場と同じ類いのデモクラシーの遺物、つまりは博物となったいるからだ。
取引という買い手の論理の存在しない美術手帖は、実際には展覧会広報誌に過ぎず、つまるところ仲介業者としてのダフ屋なので、
この国には、なんでも鑑定団に相当する、購入者向けの美術ジャーナル誌が存在しないことは書いておいてもいいだろう。
さらに、東京芸術学校の西洋画科の教官に黒田清輝がいたが、SNSなどで、日本にアートが根づかなかった理由として彼の名前を挙げることであたかも健全な批判を装い、その責任を過去やだませそうな人々に押しつけている芸大卒の人間を見ると、少しばかり呆れてしまうのだ。
近代化してから洋画を輸入したなら具象から始まるのが自然であり、画家に相当するものが刀鍛冶や民芸であったにも関わらず、日本の中世に宮廷画家などいなかったことを敢えて語らず、その一方で、公立の中高の美術教育を批判する彼らのどこに「アートへの理解」を嘆くだけの知的権威性があるのだろう。
日本のアートが西洋化できない理由を、西洋との比較において見いだしたいのならば、真っ先に批判すべきは、その遅延の直接的な原因である現在の東京芸大の学芸員の育成カリキュラムだ。
彼らには、学芸員を未来方向まで語れるように教育し、ニューヨークの画廊が雇うようなレベルで、ちゃんとアーティストと組んでプロモーションできるような環境を作る気など毛頭ない。
なぜならば、彼らは概念輸入屋に過ぎず、本当にアート概念の西洋化など果たされたら、知り合いの作家のほとんどが偽物だらけなことが割れてしまい、仮に奈良美智なら奈良美智が落ち目になったとき、落ち目です。とマーケットは告げねばならなくなる。そんな批評が本当に成立してしまう、シビアな環境の完成など、はなから誰も望んでいないのだ。

海外ではゲリラ展示などで、あくまで怪現象の演出を貫いているバンクシーの国内展示が、初めから寺田倉庫案件だと割れており、バッジまで販売したような場所で、どのような問いが成り立つと言うのだろう。存在している振りをしている連中のパワハラや陰険など、食らうだけ損なのだ。逆輸入と先見的な転業が正規ルートの国なのだから、人気の商品を作って、各々好き勝手にしのげばいい。

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