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アメリカ実用主義と存在論の距離。

アメリカ実用主義には面白い構造的なからくりがある。
アメリカ実用主義の存在論の特徴は、存在を媒介する言語の用法にあり、その効能まで語ることだ。
実質的には、存在とはなにかを問うのではなく、概念の本質を語り、概念語としての真理にまつわる用法などに思索の対象を広げるのだが、
その合理的な表情とは裏腹に、水面下で存在としての神を含めねばならない西洋哲学の存在論を、問いと思索としてやらなくて済むようになっている。
つまり、アメリカ実用主義は構造的に言語と人間の周辺を語ることで、存在を問わない。という居直りに近い立場を取ることが可能であり、
自らの能弁によって存在への問いから切り離し、無関係となることで、存在のひとつである神を自明なままでいさせているのである。
実際には、むしろ神そのものに対して最も古風な実践的立場をとれるようにしてあるのだ。
合理性を極め、科学的態度に徹することで、神秘を神秘のまま不問とし、"汝疑うことなかれ"の実践に充てられている。
アメリカ実用主義は、神の存在を問わないと同時に疑わずに済むので、哲学をやりながらキリスト教者として敬虔なままでいられ、構造を保持することができる。
これは、アメリカ自体がその歴史において、始めから哲学を介して存在論をプロパガンダにする必要がなかったことに起因する。
ヨーロッパの歴史と比較すれば明らかだが、アメリカの歴史は近代から始まっているため、中世も古代も持たず、したがって清貧をダシに贅を極めた神学者も存在せず、近代が中世を終わらせたときの、アンチクライスト的な行為と、それまでの支配的な構造を担ってきた神学的概念の用法との齟齬を調整し、思想や哲学を動員して尻拭いしてやる必要がなかったのだ。

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