僕は誰のためにサービスを作るのか|アペルザ EM 染谷の決意
今日はアペルザのエンジニアチームでマネージャーとして働くShiro Someyaを紹介したいと思います。
楽天からキャリアをスタートし、何度も大きな壁にぶつかりながら成長してきた染谷さん。その人生の転機となった瞬間と、現在に至るまでの軌跡を聞かせてもらいました。
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2度の「挫折」、そして無気力からの「覚悟」
ーまずはこれまでの経歴について教えてください。
ごく普通の大学生活を送り、就職活動を経て、2007年に新卒で楽天に入社しました。まず配属されたのは「楽天レンタル」(楽天のDVD/CDレンタル事業)のプロジェクトでした。ネットで借りて自宅に届きポストに返却するサービスですね。
リリースが数カ月後に迫るタイミングの配属でしたので、すぐにプログラマーとしてコードを書きながら社内調整しつつ、目の前の仕事をこなす毎日でした。学生時代にプログラミングをやっていたわけでもなく、右も左もわからない状態で……チームのベテランプログラマーさん達には本当に助けてもらいました。
楽天レンタルは事業と開発のメンバーを合わせて30人いないぐらいのチームで、サービスも小さいECのようなシステムだったので、商品ページから予約在庫管理、物流システム連携、オンライン課金、月額定額課金など、様々な仕事をさせてもらいました。
キャリアの初期に、こういった機能が多いサービスに関われたのは、視野も広がってすごく良い経験でした。また組織自体がコンパクトで、横の連携が早いことに加え、縦のラインの関係性が非常に密だったのも良かったです。いちエンジニアでありながら、サービスの深い部分まで事業責任者と議論するような機会も多々あり、思考力や判断力について自然とトレーニングされたように思います。
3年ほどした後、大きなサービスを見たくなり異動の希望をだします。
1度目の挫折。中国楽天市場プロジェクト
異動先は楽天市場 国際開発室でした。当時の楽天市場は中国・台湾などの国で展開しており、そこで国際版プラットフォームの開発に従事しました。
最初に入ったチームは自分以外全員、中国のメンバー。仕様書もほぼ全て中国語で、ソースコードを理解しようと思ったらソースコードのコメントも全て中国語…という環境でした。
彼らは中国、僕だけが日本にいたため、現地の様子や一緒に働くメンバーのことも理解しきれず……言語の壁と距離の壁の二重苦で、この時は本当に苦しかったです。
そんな状況の中、社内でプロデューサーのポジションが空き、そこを打診されます。楽天のプロデューサー職は、いわゆるプロダクトマネージャーの業務を担うポジションです。見えない壁に苦しみながらも、がむしゃらに働く様子を当時の上司が見てくれ、機会を作ってくれたのかもしれません。
中国語の苦労からは解放されたものの、プロダクトマネージャーの仕事も未経験の自分にとっては大きなチャレンジでした。受注管理、決済管理、配送管理、商品管理、店舗情報管理、ユーザー管理など、次々と経験したことのない壁にぶつかっていきました。
さらに、2011年頃からは楽天が買収した他国のECサイトのシステムを国際楽天市場で稼働させるための様々な仕事に関わりました。データの要件作成や設計、複数国のマーケットプレイスで動くために必要なローカライゼーション層の要件作成・データ設計などです。
誰のためのサービスなのかわからない
僕が配属された当初は20人ぐらいだった国際楽天市場は、この頃には中国と台湾に加え、インドネシア・マレーシア・シンガポール・スペイン・イギリスと数多くの国に手を広げ、システムにも300人ぐらいが関わるようになっていました。そして規模が大きくなるにつれ仕事の手触りがなくなってきたように思います。全ての機能に関わる要件作成や設計の仕事は影響範囲も大きいし、重要ではあるものの、誰のために何を作っているかがよくわからなくなってきて。自分がそういう段階のチームにあまり向いていないと気がつきました。
一方で、自分がどんな瞬間にやりがいを感じるのかを振り返ってみると、利用する人たちの顔や感情が見える距離でスピード感をもって開発しているときや、そうやって対話しながら完成させたサービスを使って喜んでもらえたときのほうが、手応えを強く感じていたことを思い出しました。
「やはり自分はもっと利用者の顔が見える環境でサービスを作りたい」と考え、楽天を退社する決断をします。
自分で事業を立ち上げる。人生最大の挫折。
楽天の退社をきっかけに、僕は住まいを横浜に移し、新規事業としてのiOSアプリ開発や、横浜を拠点にした訪日外国人向け旅行代理店立ち上げに動き始めます。
楽天での経験やそこで得た技術があったので、開発のバイトをいくつか掛け持ちすれば、正社員で働くよりも高い給与がもらえました。そういったアルバイトをしながら、本業として会社や事業を起こせないかと考えていたんです。
特に訪日外国人向け旅行代理店の立ち上げは自分たちの企画に賛同してくれる人たちも多く、市や様々な機関も協力してくれて、横浜市の中に色々な繋がりができました。そうして知り合った人たちに事業についてのアドバイスやディスカッションの機会をもらって事業はどんどんと具体的になっていきました。
旅行商品企画もできあがり、実際にお客さまを集めてのトライアルツアーもすべて終えて、そこからのフィードバックも得て、あとは事業をスタートさせるだけ……というところまで行きました。けど、あと1000万、最後の資金調達が間に合わず、夢を形にするスタートラインに立つことは叶いませんでした。
最後の数カ月は自分も無給で粘ったんですけど、ダメでしたね。
無気力社員を変えたのは、お世話になった人たちへの「恩」
この経験は自分の人生最大の挫折でした。
本当に多くの方に支援をしてもらっていましたし、その殆どは支援してくださった方の好意や有志からであり、自分たちは金銭を支払っていませんでした。
「期待をかけてもらったのに、それを返せなかった。」
「さんざん夢を語ってきたけれど、応援してくれた人を巻き込んだだけで終わってしまった。」
そんな悔しさと申し訳なさが混ざった気持ちに押しつぶされそうでした。
アペルザに出会ったのは、その挫折の真っ只中にいるときでした。
以前の記事で、上保や大橋が「アペルザの志に共感した」と話していたのを読んだので、言いづらいのですが……正直な話、当時の僕はすぐに前向きな気持ちで働くことができないような精神状態でしたし、事業価値やビジョン云々というよりも、働かないと生活することもできなかったので、オフィスが近かったアペルザに拾ってもらって働き始めた感じでした。入社してからも、自分に期待を寄せてもらうことを避けるように、「もらう報酬の分だけ働こう」というスタンスでいました。
転機が訪れたのは最近のことです。僕をアペルザに呼んでくれた役員が、新しい事業に挑戦するためポジションを離れることになり、「自分が離れたあと、エンジニアチームのマネージャーを引き受けてほしい」と言われ、覚悟を決めた形です。
巻き込んだ人たちの期待に答えられなかったときに感じる「絶望」への恐怖は消えることはありません。
だけど、その恐怖に優るほどの恩を、ぼくはその人から貰っていましたし、一緒に働き始めてからも、多くのことを学ばせてもらいました。その恩を返すためにも、「ここは逃げちゃいけない」という直感に近い想いがありました。
また、同じタイミングでCTOとなった上保の力になりたいという気持ちもありました。彼とは一緒に長い期間働いてきて、彼もまた強い決意のもとでCTOという役割を受けることにしたと感じていたからです。
そして、僕にはもう一つ恩返しをしたい先があります。この横浜という街です。
事業を始めようとした数年前には叶えることができなかった、「横浜を盛り上げる」という夢は、アペルザがこれまでにない規模の IT スタートアップに成長することでも叶えられるのではないか。
そう考えています。
エンジニアリングマネージャーの役割
ーエンジニアリングマネージャとして、日々どんなことを心がけていますか?
この仕事自体も未経験だし、毎日試行錯誤しているところです。 でも、良質な組織作りは、良質なプロダクトを作るうえでも非常に重要度が高いので、全力で取り組んでいます。
マネジメントのスタンスは「細かくみるけど管理しない。」
やっていること自体はマイクロマネジメントに近いと思います。メンバーのSlackでの発言やドキュメントにはすべて目を通していますし、かなり細かい部分まで把握しているという自負があります。
ただし、それはメンバーの仕事を指図したいからではなく、「みてもらえている」という安心感を持ってもらいたいから。
実際、業務での関わりはというと、殆どないと言ってもいいくらいです。つくっているアプリケーションやテスト開発環境にある機能デモの確認をする程度ですね。
「細かくみる」ことのもうひとつの目的は、正しく評価するための情報を正しく得ることです。僕がした評価がその人の査定に影響するわけですから、マネジメントの立場としての責任は非常に重く感じています。
さらに言えば、正しい評価をするだけでなく、評価のされ方についてもサポートしたいと考えています。例えば、定量的に自身のパフォーマンスを述べることが苦手な人へ、目標設定と評価の仕組みを提供するといった形で、きちんとやったことが評価される組織でありたいですね。
問い続けたのは「誰のためにサービスをつくるのか」
「人と街を喜ばせるサービスを創りたい」
僕はアペルザでサービスを届けることで、2つの領域の人たちに貢献していきたいと思っています。
ひとつは「製造業」。
いまの製造業をひとくくりに語るのは難しいことですが、僕が見ている範囲で1つ挙げると、製造業の人たちは情報のやり取りに非常に苦労している印象を持っています。個人でのやり取りとは異なり、情報を安全に素早く正確にやり取りすることができない。また時に柔らかくやり取りすることができないことが様々な問題を生んでいるんです。
先日も大阪のお客様先へ伺って話を聞いてきましたし、代表の石原とも毎日のように、製造業で働く人たちの現状や抱えている課題について話をしています。そういった時間を重ねていくほど、「まずこの現状を変えるだけでも、すごく助かる人がたくさんいるんだ」と感じます。
巨大な製造業のアタリマエを一気にひっくり返すのではなく、目の前の人たちにとって必要とされるサービスを一つずつ届けていきたいです。
そして、もうひとつは「横浜という街」です。
先に話したような個人的な事情も大いにありますが、僕はサービスを使う製造業の人たちだけじゃなく、会社がある街にも恩恵を与えられたら……と考えています。
「日本の基幹産業である製造業が盛り上がり、日本が元気になる」という構図が実現することはもちろん、加えてその会社がある街にも活気がでて、さらに日本を盛り上げる要因になれば素晴らしいですよね。サンフランシスコがシリコンバレーの企業とともに発展したように、横浜の街がアペルザとともに発展し、様々な先進的な企業の活動拠点になれば、こんなに嬉しいことはありません。横浜で働くようになって改めて、伝統的な部分と革新的な部分を併せ持った街の魅力を実感しますし、オフィスから歩いてすぐの場所に埠頭や公園、歴史的な価値のある建物などが点在している点もイノベーションに適していると思います。
一緒に事業を作る仲間には、誠実な、嘘のない人であってほしい
今いる仲間にも、そしてこれから働くことになるメンバーにも求めたいのは、「適当なことをしない。」ということです。
自分で事業を起こしたときから今も感じていることですが、会社は様々な方や機関に関わってもらっています。例えばコードセットやテスト結果のような小さなものであっても、嘘をつくことは、その人たちに寄せてもらった信頼を裏切ることになります。
できないことは誰にでもありますから、ときには「できません」と言うべき場面がでてくるかもしれない。全部を完璧にやる必要はありません。そうやって自分にも相手にも誠実に、嘘をつかない人と背中を預け合って、ひとつのチームでやれたらいいですね。
また、「チーム」というキーワードについて補足させてもらうなら、ソフトウェア開発もチームスポーツだと考えて取り組める人だとなお良いと思います。
チームの枠はエンジニアチームだけでなく、ビジネス・マーケ・ユーザサポート・デザイン全ての領域に及ぶものです。チームの枠を超えて顧客を理解するような場に参加したり、積極的にコミュニケーションを取ってこそ、多くの人に喜ばれるサービスが生まれると感じます。
経験があればあるだけベター、でも経験がなくてもそれをチャレンジと捉えて入社できる人なら大丈夫です。
そんな人と一緒に、人と街を喜ばせるサービスを創りたいです。
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アペルザでは積極的に採用活動を行っています。