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東海道を歩く 23 石山~大津~逢坂~京(~伏見) 230326
いよいよ京までの最終日 天気晴朗… とはならず、おそらく一日雨模様
でも楽しく歩くことにする
昨夜 膳所(ぜぜ)まで歩いたのでその先から、でも琵琶湖畔にあったという膳所城跡から見ることにしよう…
京までの最終回で気合が入ったか、思わぬ大長編になってしまった
かいつまんでお読みいただければ幸いです m(__)m
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膳所城跡(ぜぜじょう)へ
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関ヶ原の合戦の後、今日の入り口の要衝として家康が築城の名手といわれた藤堂高虎に
最初に造らせた城だったが、明治維新で廃城になり取り壊されたという
京都への入り口を抑える役割を担い、歴代藩主家はいずれも譜代大名である。
1691年より本多家が廃藩置県まで治めた
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さすがにこの雨の早朝、誰もいない
本丸は琵琶湖に円形に突き出している
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神木の大イチョウ(樹齢600年)には関が原の戦い後、
護送中の石田三成が繋がれたという話が伝わっている
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大津宿
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木曽義仲の愛妾巴御前が尼となり草庵をむすび、義仲の菩提を弔った。
境内に巴御前の墓と伝わる巴塚がある。
義仲を敬愛した松尾芭蕉の遺骸は本人の遺言により、義仲の墓の右隣に葬られた
辞世「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」
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後白河法皇より「朝日将軍」の称号を得るも、天下人であったのはわずか数か月
後白河法皇が源頼朝に義仲討伐の院宣を出し、範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた
(粟津は石山駅の北側から粟津駅にかけての地点らしい)
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元禄2年(1689年)、「おくの細道」の旅を終えた松尾芭蕉が、その年の末に過ごした場所。
その後も何度か滞在し、芭蕉を訪ねた伊勢の俳人・島崎又玄は「木曽殿と背中合わせの寒さかな」と詠んだと言われている。
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との遺言を残しており、義仲寺に墓を立てた。境内には芭蕉の句碑や史料館が残されており、
多くの参拝客が訪れている。
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近江商人の町・大津から京までの約12kmの道は、東海道・中山道・北陸道が通り、
多くの人が行きかう街道であった
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この辺から、道はじわじわと登っていく
逢坂山越え
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蝉丸神社は、東海道沿いに3社ある
平安時代、逢坂峠の守護神として建立され、後に琵琶の名手蝉丸が合祀され、
歌舞音曲の神として信仰された
百人一首10番「これやこの 行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも 逢坂の関」
蝉丸(9世紀後半)
これがあの、これから旅立つ人も帰る人も、知っている人も知らない人も、
別れてはまた会うという逢坂の関なのですよ。
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1号線と合流 歩道が下り側にしかないので、不便である
車はビュンビュン走っている
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1号線の左側を走っている
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蝉丸は逢坂山に庵を結んでいたという
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逢坂山は標高325 mの山
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古代ここには都を固める関所の一つとして逢坂関が置かれていた
ここから東が東(あずま)国という境であった
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清少納言(966〜1025)
百人一首25番「名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人にしられで 来るよしもがな」
三条右大臣(873〜932)
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江戸前うなぎは現在と同じく高級食材であったが、江戸時代の初めは蒲焼の文字通り蒲の穂のようにぶつ切りにしたウナギを串に刺して焼いただけという食べ方で、値段もそばと変わらなかった
ちなみに「そば」は江戸時代の大部分の期間で16文(400~600円)であったという
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東海道最大規模にして最後の宿場 大津。走井(はしりい)茶屋の店先の井戸(走井の井筒)からこんこんと湧き出ているのが、多くの旅人の喉を潤してきた走井の清水。古来から歌にも詠まれる名水だ。茶屋では走井餅を商っている。走井の井戸の名水でこねたこの餅を食べれば、
道中で襲われることがないと言われる縁起担ぎの名物であった
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明治期に茶屋旧跡を日本画家の橋本関雪が購入 昭和21年からは月心寺となった
走井の井筒には今なお枯れることなく水が湧いているという
山科追分
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いよいよ京都だ!
みきハ京みち ひだりはふしミみち
幕府は大名が京に入ることを好まないため、参勤大名は伏見道を通行した
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境は東海道ではない様子
いよいよ京都市
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六角堂には京へ入り込む悪霊を封じる山科廻地蔵が安置されている
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六条は、東本願寺・西本願寺、今ぐ満は今熊野観音寺、大佛は方広寺の大仏、きよみずは清水寺
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ここ粟田口刑場は1万5000人の罪人が処刑された 明智光秀の遺体が晒されたことでも有名
供養塔がたくさんあったらしいが、明治の廃仏希釈でかなり壊され、石垣などに利用されたという
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琵琶湖疎水越流堰
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粟田口を過ぎると左手にレンガ造りの広大な蹴上浄水場が見えてくる
そして右手には煉瓦造りの琵琶湖疎水インクラインの土手が見えてくる
このトンネルは「ねじりまんぼ」と呼ばれている
内側のレンガの積み方が斜めにねじったようになっているとのこと
強度を増すためらしい
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琵琶湖疏水(びわこ そすい)は、琵琶湖の湖水を西隣の京都市へ流すため、
明治時代に作られた水路(疏水)。
大津市三保ヶ崎で取水し、水門・トンネルなど利用し、各方面に分水しながら、
鴨川などに流れ込む。水道用水、水力発電、農業用水、下水の掃流、工業用水などに使われる。
また、疏水を利用した水運も行われた。電力は日本初の電車(京都電気鉄道、のち買収されて京都市電)を走らせるために利用され、さらに工業用動力としても使われて京都の近代化に貢献した。疏水を利用した水運は、琵琶湖と京都、さらに京都と伏見、宇治川を結んだ。船賃はかなり安かったという。落差の大きい蹴上と伏見にはケーブルカーと同じ原理のインクラインが設置され、
船は線路上の台車に載せて移動された。
水運の消滅に伴い、廃止されたが、蹴上インクラインは一部の設備が静態保存されている。
東山地区の庭園や、また京都御所や東本願寺の防火用水としても利用されている
京都を舞台にしたドラマで有名な南禅寺の水路閣も琵琶湖疎水を利用している
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満開の桜で、雨にも関わらず観光客でにぎわっている
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雨で濡れ続けた体も心も生き返る思い😂13:01
「みふき亭」https://kyotopi.jp/articles/BAtIu
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山に囲まれた京都は、乾燥させた保存食を戻して使う技術も進歩している。
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建築物の高さ規制があり、落ち着いた街並みになっている
桜で観光客が多い京都だが、スポット・スポットは混雑しているものの、
雨ということもあって、途中の道は意外とすいている
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東海道を行き来する旅人の信仰も篤かった。
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「是よりひだり ち於んゐん(知恩院)ぎおん きよ水みち」
京に不案内の旅人のためにこれを立てるとある
三条大橋
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ちょうど桜の真っ盛りだったしね(今年は早かった🌸)
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これでもなるべく人の切れ間を縫って歩いていますw
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人混みが写らない角度を狙って… 工事中だし… 雨だし…
やや不本意ながら、一応これがベストショットかなぁ
三条大橋の改修工事について 木製高欄(欄干)の取替え
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あんまり余韻にふける雰囲気ナシ…
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関東組と関西組の2チームに分かれて京都の三条大橋をスタート、
1チームは23名、昼夜を問わず三日間で全長516kmを走ったそうです
関東組はアンカーにあの金栗四三を起用、
スタートから約44時間で上野不忍池のゴールに飛び込んだそうです
最初の駅伝はなんともスケールが大きかったんですね!?
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奥の山が比叡山、手前の山裾に清水寺や知恩院、八坂の塔などあり
京都御所の方から描いている
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東海道の西の起点である三条大橋は、はじめは室町時代の造営とされております。
現在のような木製の高欄に擬宝珠(ぎぼし)が設置された姿となったのは、
天正18(1590)年に豊臣秀吉が行った改修工事によるものです。
その後,洪水による流出などにより、幾度となく架け替えが行われました。
現在の橋は昭和25(1950)年に改築され、木製高欄については、
昭和49(1974)年に更新されました。(京都市HPより)
そういえば、牛若丸と弁慶が出会った場所は五条大橋という。 それって鎌倉幕府が開かれる(1192年)前だけど、立派な橋が架かっていたのかなあ 今度調べてみます
念願の三条大橋でしたがあまりゆっくりも出来ず…
ということで、念願の三条大橋であまりゆっくりも出来ず、朝からずぶ濡れ+観光モードにもなれないし、予約した新幹線まで3時間以上あるし…ということで、京都から先 大阪に向かう「京街道」の最初の宿 伏見まで歩いてみることにしました
東海道を歩く 24 三条大橋~伏見稲荷 230326 に続く
本日の行程 25.5km/39,972歩(旅程以外含む)
石山~(5.2km)~義仲寺~(3.8km)~逢坂の関~(1.6km)~山背追分
~(2.4km)~五条別れ道標~(3.3km)~蹴上交差点~(1.6km)~三条大橋~(2km)~豊国神社~(2.8km)~伏見稲荷 ……京都駅