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東海道を歩く 20 庄野~亀山~関~坂下 221231

いよいよ、大晦日。普段なら、お正月前の準備で片づけに、そうじに大忙し。でも、街道筋のお宅では、お正月の準備は万端のようで、外でばたばた動いている人はほとんどいない。
観光客もほとんどいない。年末31日まで運行していたコミュニティバス(鈴鹿峠下の「坂下」から「関」)には乗客がいなかった。(年始はお休みするらしい)

7:34 四日市のホテルの窓から、山を臨む 
雪がついているところも多いので、鈴鹿峠はどこで、雪はどうだろうと心配になる
工場メンテナンスの職人さんたちは、早々に出かけている様子
8:28 四十五番 庄野宿 入口 路線バスが走ってきた
庄野宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠15軒という小さな宿場であった。 比較的宿場の面影がよく残された町で、連子格子の旅籠や店屋形式の家屋が何軒かあり、道幅も往時とそれほど変わらない。 本陣跡、脇本陣跡、問屋場跡、会所址、高札場跡 などに標柱と案内板が設置され、江戸時代は油屋であった旧小林家の建物を「庄野宿資料館」として公開している。
8:29  庄野宿 町並み
8:34 庄野宿 資料館 問屋場(といやば)の貴重な資料が展示されているという
8:34 庄野は古く伊勢神宮内宮の庄野御園(荘園)であったと伝えられている
江戸時代は天領 隣の石薬師寺宿から2.7kmほどしかなく、、東海道では2番目に距離が短いそうです。本陣1・脇本陣1・旅籠15軒と200軒ほどの人家で、東海道の中では規模の小さな宿場でした
庄野の白雨(広重の最高傑作のひとつ、夕立の庄野)
突然湧き上がる黒雲。客ににかっぱをかぶせて急ぐ駕籠かき、客は振り落とされないよう必死に駕籠の枠をつかんでいる。傘を半開きで歩く旅人、体にむしろを巻き付けた男があわてて走っていく。揺れる木々が臨場感を出し、雨や風の音まできこえてきそうな風景である
8:35 庄野宿資料館 トイレもありがたい
8:36 問屋場跡
宿場を円滑に運営するために、宿役人が存在していた。
この宿役人が業務を行うために詰めていたのが問屋場である。
8:38 庄野宿本陣跡
庄野は石薬師宿の後にできた規模の小さな宿で、経営は苦しかったという
8:41 川俣神社
奥に樹齢300年のスダジイあり(残念ながら、社殿右側なので、ここには写っていない)
8:49 国道1号410km地点
庄野宿を出た街道は、汲河原町信号で国道1号と少しだけ合流して、すぐに左の細道へ入る。 安楽川に沿った農村地帯を進むと「従是東神戸領碑」があり、「女人堤防碑」がある。 その先の川俣神社の前には「中冨田一里塚跡」。安楽川に架かる和泉橋を渡り、JR線の踏切を越えてJR井田川駅の前をすぎ、国道1 号を渡って西信寺の前を通って河井椋川橋を渡る。 「和田道標」の二叉路は国道へ出ないで右へ行くと、復元された「和田一里塚」がある。 古い家並みもところどころにある中を街道は左へ大きくカープして、やがて「江戸口門跡碑」に出合う。亀山宿である。
9:02 中富田一里塚 103里
川俣神社・亀山藩領界石・常夜灯があった
9:20 安楽川・旧和泉橋跡 長さ70間の仮土橋。増水時には徒歩渡しとなった
関西本線 井戸川駅付近
9:42 JR関西本線 井戸川駅
9:43 井戸川駅前のヤマトタケル(日本武尊)の像
東征を終え、ヤマトタケルは尾張国で結婚したミヤズヒメの元に剣を預けたまま、
伊吹山の悪神(荒神)を退治しに行ったが、毒にあたり、弱った体で大和を目指していたが、
三重県の鈴鹿山中で亡くなったという。
ヒメの元の草薙の剣を呼んで亡くなったという(17.豊明~宮 熱田神宮編)
能煩野(のぼの)(三重県亀山市)に到った倭建命は
「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」から、
「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」
に至る4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。時に30歳であった。
大和から訪れた后たちや御子たちにより、東海道からほど近い能煩野(のぼの)に陵墓が作られたという。その後、タケルは白鳥になって、大和をめざして飛んでいったという。
明治になって、能煩野神社がつくられたという(神社の近くに前方後円墳あり)
ヤマトタケルの伝説を追いかけての道行きだ
9:43 カメヤマローソク 
昭和2年この地で創業。神仏用に加え、西洋ろうそく(キャンドル)も製造。
品質の向上にこだわる 全国シェア5割以上のメーカーである 
10:43 能煩野神社鳥居
亀山は江戸中期以後は石川氏6万石の城下町であった。6万石の城下町としては町の規模が小さく、宿場町としてもそれほど大きくはなかった。 亀山城は「粉蝶城」とも呼ばれ、姿の優美さで知られる城であった。現在は堀や土居、石垣の上に多門櫓などが残っている。 江戸口門を右へ曲がると「脇本陣跡」「本陣跡」「東町問屋場跡」などがあり、関の小万の仇討ちがあった「大手門跡」や、「石井兄弟仇討ち碑」が城内にある。 西町には「西町問屋場跡」や「青木門跡」、復元された「加藤内膳家長屋門」などがあり、城下町らしい曲がり<ねった細道や、ところどころに古い家並みが 残っていて、雰囲気のある町である。 「梅厳寺」の境内に「京口門跡」の標柱がある。京口門は、石垣に冠木門、棟門、白壁の番所と大変立派なもので、「亀山にすぎたるものの二つあり伊勢届蘇鉄と京口御門」と謡われたほどであった。この門が現在残っていないのは残念である。 京口坂橋を渡って亀山宿を後にする。
10:50 米川時計店
10:55 東新町 まつばや跡
46番 亀山宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒
伊勢参りの道からはずれていることと、幕府直轄の城下町である宿場町に泊まるのを
大名たちが避けたためか、小規模な宿場であった
11:25 JR関西本線 亀山駅
JR東海(名古屋~亀山 電化) JR西日本(亀山~加太 非電化 加太~奈良~難波 電化)
の境界駅である
樹齢400年というムクの巨木が目立つ「野村一里塚」105里
布気皇舘太神社 年越しのどんと焼き?の準備か
12:34 名阪国道と東名阪自動車道の高架下
三重県と滋賀県の広重53次の浮世絵が描かれている
12:48 関宿入口
宿場歩きが楽しみな関 「束の追分」は伊勢別街道の分岐点でもあり、「一の鳥居」と「常夜燈」、「道標」が残っている。 東西約1.8km にわたって占民家が続く関の町並みは、昭和59年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された。 地区内の建物の7割は戦前の建物で、223の伝統的建築物がある。その後も町ぐるみで歴史的景観保存の努力が続けられており、電線さえも街道に面した部分は完全に取り除かれた。 関へたどり沿いた旅人が、鈴鹿を背景に見た関宿の姿はこうであったかと改めて感動する。 関宿の散策は、街逍沿いの主な建物や遺構には案内板があり、案内のパンフレット類も充実しているのでわかりやすい。 道の左右には連子格子の家並みが延々と続く。格子戸のところには馬繋ぎの鉄の輪があったり、塗籠の墜にはよく見るとこて絵があるなど、じっくりと見てい くと面白い。建物も商売によって造りが違い、遊郭などは二階屋の格子戸も艶っぼい。 また、町屋を開放した「関まちなみ資料館」は宿場時代の町家の生活を再現したもので、当時の生活道具や、町並み保存運動に関する資料などが展示されている。 「旅籠玉屋歴史資料館」は、関を代表する旅館・玉屋を、町が建物を買い上げて修復・保存、一般に公閲しているものである。 関の名物といえば老舗菓子舗深川屋の「関の戸」である。こし餡をぎゅうひで包み、和三盆をまぶしたもの。店舗は天明4年(1748)の建物で、江戸時代の商家そのままである。
12:49 小万もたれ松 小野札場坂
仇討ちで有名な小万は関で生まれた
久留米藩士の父が同僚に殺された、その妻が仇を訪ねて身重な体ながら関までまで来たが、
旅籠山田屋で女子(小万)を生んで亡くなった。
小万は山田屋で養育され、亀山に通って剣術を学んだ
通う途中、小万はこの松にもたれて、若者たちの戯れを避けた
後に亀山で本懐をとげ、養父母につかえたという
12:51 江戸から47番目「関宿」は東追分から西追分まで1.8km
古くから交通の要衝で、古代三関の一つ 鈴鹿関が置かれ、
参勤交代や、伊勢参り、商用の人々などでにぎわった
1日1万人が行きかったという
2つの本陣、3つの脇本陣、旅籠42軒
12:56 東追分 伊勢別街道の入り口 一里塚跡106里
12:58 江戸時代から明治初期にかけて建てられた200軒もの町屋がずらり
歴史的な街並みが残る街道として、1984年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された
低い2階建ての家が多く、瓦葺きや、庇の位置が両隣とそろっている
1階部分は、摺り上げ戸(すりあげど)や格子戸、出格子窓、2階は漆喰、塗籠の家が多い。
それぞれ手が込んでいる。
宿場ごとに、建築様式が微妙に変わって、興味深い
また、共通して建物は街道の際から立っていて、間口が広い
勿論、奥行きもあり、1軒1軒がかなりの広さがあるようだ
13:05 関宿町並み 鈴鹿の峰々を臨む
13:06 百五銀行 実際の店舗である
13:08 桶屋さん
13:10 伊藤本陣址 
「本陣早立」
本陣を出立する大名一行の早朝の一コマ
早朝に出立しようとする 大名一行のあわただしい様子が描かれている
東海道を旅する大名たちが宿泊する本陣は、主に土地の有力者の家だった
一行が泊る日、本陣の当主は幔幕を張りめぐらし、灯籠を掲げて出迎えたという
13:12 高札場
13:13 名物志ら玉
13:13 福蔵寺
13:14 地蔵院
13:17 鈴鹿山脈を臨む
13:24
13:31
「西の追分」は大和街道の加太越えの道との分岐である。
関宿の西の追分には、「ひだりハいかやまとみち」と書かれた道標がある。
左は伊買・大和道である。
東海道は、車が絶え間なく走る右の国道1号と合流して
緩やかに右へとって坂下宿へと上って行く。
13:40 転び石
いよいよ最後の難所、鈴鹿峠越え 険しい峠を越えると近江に至る 
しばらく行くと「転び石」がある。片づけても片づけても街道に転がり出てしまうという大岩だ。
鈴鹿川を渡る橋の手前で国道から離れて右の道を行くと市瀬に入る。
国道を左へ横断するところには道路を挟んで「常夜灯」がある。
14:00
再び国道に合流して、しばらくして右手に「筆捨山」が見える。この景色があまりにもすばらしいので、絵師も筆を捨てて眺め入ってしまう、ということからこの名前がついたという。
またこの辺りには「筆捨茶屋」があったといわれ、関と土山の中間にあたる。
「坂の下」
旅人たちも見とれる筆捨山の岩肌の美しさ
茶屋の縁台で一休みする旅人たちが、左に見える筆捨て山を眺めている様子を描く
坂下宿を過ぎると、山賊や盗賊たちが多く出没した難所・鈴鹿峠が旅人たちを待ち構えていた
14:09
鈴鹿川の流れが右に転じると、街道は右の旧道へと入っていく。
入口近くには「一里塚碑」がある。旧道は、国道の喧騒とはうってかわって静かな道である。
東海自然歩道の道標
東京・高尾山から大阪・箕面迄 山際を縫って道(ハイキングコース)がある
14:15
沓掛の古い町家の家並みの始まり
14:15 沓掛の町並み
14:27 馬子唄会館
超泉寺を過ぎてしばらく行くと鈴鹿馬子唄会館と坂下民芸館がある。
「坂は照る照る鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る」。
鈴鹿峠を象徴するこの馬子唄が流れる会館では、坂下宿や資料が展示されている。
14:34 坂下宿
馬子唄会館を後に、杉林抜けて河原谷橋を渡ると坂下宿である。
13:37 松屋本陣跡
坂下宿は、本陣3軒、脇本陣1軒、旅簡48斬。本陣や脇本陣、旅籠の規模も大きく、かなり大きな宿場であった。明治23年関西鉄道の開通により通行者が激減したために宿場としての役割を終えたが、集落を通る道の広さを見ても、物産が集積したであろう往時の賑わいが想像できる。
今は荼畑の中に、「大竹屋本陣跡」「小竹屋脇本陣跡」「梅屋本帥跡」の家内板が立っている。
14:39 法安寺
15:02 坂下宿 とりあえず、本日の行程は終了とする
15:21 梅屋本陣跡 16:05分発のバスを待つ間、坂下宿をぶらり
15:46
1日4便の貴重なバス 亀山市のコミュニティバス
日曜・祝日・正月3ケ日は運休
15:48
48番 坂下宿 少なくとも室町時代から宿として機能していたらしい
しかし、1650年(桃山時代)の大洪水で宿は壊滅、翌年現在地に移転し、復興された
なお、かつての宿はもう少し鈴鹿峠に近い片山神社下の谷間にあったという
江戸時代には賑わい、東海道の難所である鈴鹿峠を控えて参勤交代の大名家の宿泊も多かった
江戸時代後半には東海道有数の宿となった
「此宿の本陣広くして世に名高し(中略)海道第一の大家也」と記されるほどであった
15:50 バスを待つ
16:00
残念ながら、日没の時間と、宿泊地までのルートを考えて、
本日は坂下宿から、バスに乗って戻ることにする(関駅まで)
他の乗客はいなかった
16:55 関駅(無人駅)からJR関西線に乗る 2両編成のディーゼルカーであった
17:03 関駅に入線の関西本線 亀山行き ディーゼルカーだった
1時間に1~2本   JR西日本 非電化区間である
本日の宿泊地 白子
明日朝のご来光を見るために、伊勢湾岸近くのホテルに宿泊することにした
さすがに、観光客でホテルは満室のようである 
伊勢神宮の初もうでに行くのかなと勝手に想像する

庄野~(8.7km)~亀山入口~(5.6km)~関宿入口~(2.1km)~関宿西追分~(6km)~坂下  合計22.4km 6時間35分


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