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キング牧師と公民権運動

差別主義はどこかへ消えた訳ではない


マーティン・ルーサー・キング・ジュニア/Martin Luther King Jr.(1929年1月15日-1968年4月4日)

ジョージア州アトランタ出身.父親と同じくプロテスタントバプティスト派の聖職者.弁舌家.

15歳でモアハウス大学に入学し4年で卒業、クローザー神学校に3年通い神学士号取得、そしてボストン大学神学部に4年通い1955年博士号を取得。ボストン大学在学中、コレッタ・スコット/Coretta Scottと結婚した。4人の子供を授かる。

モットー「非暴力直接行動」

1954~1960年、アラバマ州モンゴメリーのデクスター・アベニュー・バプテスト教会で牧師を務める
1955年12月5日~1956年12月20日、バスボイコット
1957年、南部全域での運動のため南部キリスト教指導者会議(SCLC)設立
1959年、影響を受けたガンジーの祖国インド訪問
1964年(公民権法成立)、ノーベル平和賞受賞
1968年4月4日39歳の時、テネシー州メンフィスのモーテルのバルコニーにて狙撃され死去



時代背景

リコンストラクション以来、南部諸州には合憲として封じることのできないジム・クロウ法が出現し、投票や公共施設の利用など日常のあらゆる側面で人種隔離政策が敷かれていた。約束の平等は実現せず根強い差別意識が支配し、KKKが暗躍していた。

1883年、公民権裁判において連邦最高裁判所は、州による差別は禁止されているが私人による差別は問題なしとした。

1896年、最高裁判所は、ルイジアナ州における鉄道車両において、設備が同じであれば人種を隔離すること自体は合憲であるという判決を下した(プレッシー判決)。「隔離すれども平等」理論は、以後何十年にもわたり人種差別を正当化する根拠となった。

1954年、最高裁は教育機関での人種隔離は不平等であり違憲であるとした(ブラウン判決)。



公民権運動とは

主に1950年代半ばから1960年代半ばに全米で活発化した、憲法で保障された諸権利の適用と差別撤廃を求めたデモや座り込みなどの抗議行動であり、強力な1964年公民権法の礎となった。最古の公民権団体全米黒人地位向上協会(NAACP)やキング牧師がその中心的存在となり、多くの団体が発生した。警察や差別主義者たちの酷い暴力がマスコミに取り上げられることで世論を喚起した。

モンゴメリー・バス・ボイコット

1955年12月1日、アラバマ州モンゴメリーで当時42歳のローザ・パークス/Rosa Parks(1913年2月4日~2005年10月24日)が仕事帰りに市営バスに乗車していた折、座っていた座席を白人に譲れと運転手に言われたが、拒否したことにより逮捕された。それに反応しキング牧師らの呼び掛けで始まった大規模なバスボイコット運動は翌年、最高裁でバスの人種隔離は違憲であると判決が下り収束するまで1年間続き、公民権運動が盛り上がる口火を切った。バス利用者の大半は黒人だった為、市は打撃を被った。彼女は公民権運動の母と呼ばれている。

ワシントン大行進

奴隷解放宣言から100年の節目に当たる1963年の8月、ワシントンD.C.に20万人以上の群衆が仕事と自由を求め結集し、公民権運動のピークとなった。
テーマソング「We Shall Overcome」



まとめ

今日では当たり前のことが当たり前のこととして人々に認識されるために、当たり前ではない労力と犠牲が強いられてきた。独立宣言から公民権法成立までは約200年。黒人は白人と同じ扱いを受けることも一緒に居ることさえ許されず、見せしめに罵倒、リンチ、焼き討ち、殺害など無茶苦茶なことをやられた。キング牧師は、警察に幾度も不当に逮捕され、FBIの盗聴により女性関係をネタに脅迫され自殺に追い込もうとされた。ある時は白人至上主義者に部屋を爆破され、黒人女性に胸を刺されたこともある。日本人の感覚からはわかり辛いが、アメリカでは法律や裁判所命令であろうと公然と無視される場合があり、州政府と中央政府、自治体警察と連邦警察などの間で分裂したり、我慢できなければ人々は暴動を起こす。だが理解されなかった者が勇気を持って声を上げれば、結果的にみんなに尊重されたりする場合もある。憲法や法解釈は時代とともに変わり、正しい犯罪者、反逆者がそのきっかけを生む。先人により与えられた多大な遺産に敬意を払い、我々はそれに見合うぐらい上手にやれるようにならないものか。





映画『グローリー~明日への行進/Selma』(2014・アメリカ/イギリス)

アメリカが自由の国であったことなどないというのがわかった。今の黒人はかっこいいヒップホップのイメージがあるが、つい半世紀前までは選挙権もなく白人と同等の人間とは見なされていなかった。ここに至るまでに如何に過酷な環境を這い上がってきたかを知るとショックを受けると同時に気概を感じる。それに、アメリカはとても暴力的な国というのがわかる。人種差別に反対する活動家や一般市民が迫害され南部では何千人も殺されており、それは現代の銃問題とも重なってくるが、こっちまで何されるか心配になってくる。だが市民権が剥奪されていても、挑戦することは国是で努力が報われる可能性もある。押し付けられた平和と対比して、揺るぎない権利が生き残る。アメリカの自由は、下剋上の意に留まっていると思われる。
大抵少数者に対する差別を支えているのは、みんなの大好きな多数者の総意(コンセンサス)である。執拗にFBIに監視され、常時暴漢に襲われる危険に晒される。武装し身を守ることは間違いではないが、やり返さない方が両者は際立ち良識ある人々の賛同を得やすくなる。運動マスコミ世論選挙、全ては影響し合い、力のせめぎ合いの中で、自分たちの勝手な都合や思い上がりにより、警察も裁判所も法を恫喝の道具とし、政治家は偏見や憎悪を煽るだけで、虐めの輪に加わる。それがホテル、学校、職場、選挙制度、税、レストラン、プール等に波及していた。そのことをしっかり踏まえ、黒人がいくら相対的に強固な立場を築いたとしても、基本システムが大幅に変革され、正義が通らないのなら、社会は新たな奴隷を求め続けることだろう。

先の見えない苦難のなか、神を讃え信仰と品位を保持し、恐れず地道に止まることなく前進する。この道しかない、今さら後戻りはできない。

暴力、屈辱そして死の報復が続く闘いで兄弟姉妹を傍観していたら男も女も同罪だ。丸腰のセルマの住人が激しい暴力によって戦場のように催涙ガスと警棒で攻撃される限り、潔白なアメリカ市民などいない、同胞としてその責を負っている。

セルマ大行進とは
1965年
3月7日1回目の行進、525人の市民が6ブロック進んだだけでエドマンドペタス橋にて州警察官らに暴行され、何十人も負傷した(血の日曜日)。1965年3月21~25日3回目の行進、初日の3,000人から最終的に25,000人が参加。投票権法(同年成立)を求めアラバマ州セルマから州都モントゴメリーまで約80キロを5日間かけデモ行進した。


監督:エイヴァ・デュヴァーネイ

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