#ネタバレ 映画「ローマ法王の休日」
「ローマ法王の休日」
2011年作品
トラウマは最強の信仰なのか
2012/11/4 18:20 by さくらんぼ
( 引用している他の作品も含め、私のレビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。 )
身につまされる物語でした。比較するのもなんですが、法王選挙のシーンでは、何十年も前の、小学校時代、学級委員選挙の、一滴の喜びがまじった困惑を思い出してしまいましたし、法王の逃亡劇からは、就職後の休暇を思い出してしまいました。だから、類は友を呼ぶと言いますか、人間同士でも、この映画を選択したことでも、同類には引力が働くのだと、改めて感じたのでした。
そんな、他人事とは思えない同情心の下で映画鑑賞をしたためか、感情に溺れ、細部まで記憶していないところもありますが、すこし話しを進めてみようと思います。
法王に選ばれた主人公のメルヴィルは、子供の頃、妹に負けた記憶があるのですね。つまり「自分は一番にはなれない人間だ」とのトラウマがあるのです。それなのにトップ・オブ・ザ・ワールドの法王になってしまったのですから、さすがに、これでは尋常ではいられないわけです。あてもなく、ただ一人、街を放浪するメルヴィルの絶望感と孤独、逃げ場の無い苦しみが、私にも既視感となってあふれてきました。
もし、ここで、トラウマも無く、要領の良い人間なら、人前だけは法王らしく振舞う(お芝居をする)ことで、乗り切ることが出来たのでしょう。あの、法王の衛兵が、文字通り影武者として部屋の中でカーテンを揺らしていたのも、劇団のエピソードが出てきたのもその記号でしょう。メルヴィルなら、衛兵以上の芝居ができるはずですので、能力的にはお勤め可能なはずです。
法王に限らず、世の大抵の仕事には、ある程度、特に初心者のうちは、お芝居の要素も必要であることは否めないでしょう。
どこかで、こんな話しも読んだことがあります。四国のお遍路さんの話ですが、東京から煩悩にまみれてお遍路を試しにやってきた一人の男。まず最初は白装束を着ることで外見がお遍路さんになります。直後、いきなり見知らぬ他の観光客から「本物のお遍路さんがいる」とばかりに写真攻撃にあって困惑したそうです。その段階では、まだ、ただの俗人、お芝居のレベルです。だから、まだ白装束もしっくりしないのに(サラリーマン一年生のスーツも、お医者様になりたての白衣も、そうなのでしょう)。
その次に、長距離を歩くことで足に豆を沢山こさえて、それを克服することで、体がお遍路さんになります。
やがて見ず知らずの他人様から、今度はミーハーの観光写真ではなく、魂の救済として、仏にすがる気持ちの、本物の「お接待・(お大師様と同じ扱い)」を受けて、やっと心が本物のお遍路さんになっていくのです。
メルヴィルも、最初は形から入ることで、なろうと思えば法王になれたのです。さらに、彼にも、お大師様ならぬ、キリスト教の神様がついておられます。映画にも出てきましたが、聖書によれば、神様は、その人に耐えられる試練しか与えられないとか。それを信じるのなら、前に進むことが出来たのです。でも、進めなかった。彼にはトラウマを克服するほどの力強い信仰が無かったからです。裏を返せば、それほどトラウマの力は強く、メルヴィルは純粋でもあったのです。しかし、その純粋さこそ、神が選択した宝物だったのでしょう。
余談ですが、セラピストの男性。彼も、子供の頃にトラウマがありました。そして、そのトラウマを指摘する妻からの逃亡(離婚)をはかりました。ある意味彼もメルヴィルと似たもの同士でありました。また、映画「英国王のスピーチ」も子供時代のトラウマに苦しむあるじの物語でしたね。
この映画は、ストーリーが予定調和にならないので(少なくとも私の)、後味はよくありません。単なるコメディーだと思ってみていると、足をすくわれてしまいます。でも、たまには封切りでこのように斬新な作品に当たることが、映画鑑賞の醍醐味でもあるのだと思います。メルヴィルを演じたミシェル・ピッコリさんがとても良かった。
★★★☆
追記 ( 神様の計画 )
2012/11/5 9:40 by さくらんぼ
メルヴィルが法王の辞退演説をしたことで、ローマ教皇庁は天地がひっくり返ったほどの大騒ぎになったことでしょう。実は、これこそが、神様が(もちろん映画監督も)たくらんだ計画の中心だったのではないかと思います。
メルヴィルは辞退演説のなかで、たしか「改革の必要性」を訴えていました。彼は辞退したので、もう、それが可能な権力者では無くなってしまいましたが、辞退の波紋はさざなみ程度ではすまないでしょう。何が原因だったのか、他にも問題は隠れていないのか、などと議論が始まることは必至です。
私はローマ教皇庁の知識はありませんが、映画に出てきた「トラウマ」を、「いつまでも消えない古傷」と言い換えるならば、「外部からアンタッチャブルだった教皇庁の古い慣習」も、ある意味トラウマと言えなくもないのです。この映画は、それを訴えていたのかもしれません。
軟禁状態になったセラピストが、「ここには何でもある」と意味深長なセリフを言っていました。なんでもあって、外部からはアンタッチャブルな特権組織は、たいてい改革が遅れます。そこにあぐらをかいて、しまうからです。これは官公庁でも、一般会社でも、同じでしょう。これは、そういう話しだったのかもしれません。
メルヴィルは辞退演説の後、聖職者も引退したのでしょう。これからは、ただのおじさんとして、還俗者に近い生活をしたのだと思います。これはメルヴィルにとっても幸いでしょう。肩の荷を降ろし、余生を自分流に生きていけばよいのです。また、ローマ教皇庁内でも、いくつかの改革が行なわれたはずです。結局、神のたくらみから見ればハッピーエンドだったのかもしれません。聖書にも「神のなさることは時にかなって美しい」とかあるようですので。
追記Ⅱ ( JAZZの名盤から見る、オレオレ詐欺 )
2015/8/7 11:42 by さくらんぼ
本人ではなくて、
舞台に、
だまされるよ。
JAZZのピアノのビル・エヴァンス。その1961年の名盤に「ワルツ・フォー・デビイ」があります。
JAZZファンなら知らぬ者のない、超のつく名盤の一枚。
「これを聴いて美しいと感じなければ、病院に行った方がよい」と言いきる者もいるほどの作品。
でも、そのジャケットについて言及するものは少ない。
ジャケットには額縁のように太くて黒い枠があります。そこに、むかしのTVのような4対3の画面があり、黒いシルエットで、ショートカットの女性らしき人物の、やや横向きの、首から上が写っています。
彼女は、おそらく、アルバムタイトルのデビイでしょう。当時2歳だったビルの姪です。これはタイトル通り、姪にささげられたアルバムなのです。
でも画の頭身では2歳には見えません。20前後の女性みたいです。
ところで、黒いシルエット背景は何色だか覚えていますか(一度でも見た方に質問しています)。
それは「桜色」なのです。
やさしいピンク色。
この色が、ジャケットを見る人々に幸福感を与えていることは間違いないでしょう。
しかも、たぶん人々は、自分が今、幸福感に浸っているとさえ気がつかない。
「桜色」であった記憶さえ無いかもしれない。
でも、黒いシルエットしか記憶がなかった人も、潜在意識にはこの「桜色」が刷り込まれているのだと思います。作者は、それを計算していたのかどうかは分かりませんが、シンプルで実にハイセンス、かつ巧妙な画だと思います。
そう言えば、人を包み込むように光るオーラにも色があり、私の友人の女性は、自分は「ピンク」と言っていました。
ピンク色のオーラをまとう人は、ネットでいろんなサイトを検索させてもらうと、優しさ、慈愛、安心感、平和、と言った心の持ち主だそうです。
たぶんこのアルバムの画は、デビイちゃんが20歳になったころを想像して作ったものなのでしょうね。
ひるがえって、私たちの生活の中にも、このアルバムのように、実体の実力ではなく、その背景の色や、雰囲気で、私たちを説得しているものも存在しているはずです。
そんなものにも気がつけばと思いました。
そうそう、オレオレ詐欺の狂言もそうですね。みなさま気をつけましょう。
私みたいに「私は大丈夫」という人が一番あぶないそうですから。
( 最後までお読みいただき、ありがとうございました。
更新されたときは「今週までのパレット」でお知らせします。)