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ノウゼンカズラ

 鮮やかなオレンジの花弁がわたしのことを見張っているような気がした。見守っているのではなく、見張っているのだ。たとえば家の近所の道端に咲いているノウゼンカズラだが、同じ道を同じように去年の夏も通っているはずなのに、そこにノウゼンカズラが咲いていたという記憶がない。その一箇所だけの話ではなく、いろいろな街のいろいろな道路で、ふとその鮮やかなオレンジ色がわたしの視界にチラつき、そしてわたしはそこにノウゼンカズラが咲いているという事実を認めざるを得なくなる。はじめは、ブーゲンビリアかもしれないと思っていたのだが、花の咲きかたも、茎の伸びかたも、ブーゲンビリアのそれとは全く違い、少し調べたら、この夏わたしが見ている、あるいはわたしを見張っているのは、全てノウゼンカズラだったいうことがわかった。なぜ見張られていると感じるのかは、自分でもよくわからない。なにか悪いことをしているというつもりもないし、わたしはわたしなりに変わらない日常を生きているだけだ。変わったことといえば、ウイルスの拡大が一向に収まらないことだろうか。去年の夏も、生活のなかにウイルスの存在はあったが、どこか今よりも楽観的な雰囲気が漂っていたような気がする。マスクをしていないひとも今よりも多かったし、感染するのは一部のひとだけ、というような雰囲気がそこにはなんとなくあった。その前の年は、そもそもウイルスは存在していなくて、誰もこのクソ暑い夏の最中にマスクをしたりなんかしていなかった。いつからか、わたしたちはウイルスと共にいる世界を生きるようになった。有名人の感染者や死者も増える一方だし、職場の繋がりなんかでも、感染者の話を聞くことが増えた。わたしは感染しない、という確証なんてもうどこにもないし、家とコンビニとスーパーにしか行かないような生活をしていたって感染することはある、いつからか、そんな世の中になってしまった。知人の肥満体の男性が、咳が止まらなくなったその日に入院して、それから十日近く、誰も連絡を取れないという状態が続いた。病院と連絡しているという、本人の家族とは連絡が取れていたらしく、わたしよりも近しい関係の友人には、万が一のことがあった場合には入院しているその彼の母親経由で連絡が来る、ということになっていたので、何も連絡がないということは生きているのだろう、と皆思ってはいた。だが、たとえば同じような年代の死亡者の報道がテレビであったりするたびに、わたしはそれを聞いてドキッとしてした。照りつける日差しの下では、ただ道を歩いているだけで汗が噴き出てくる。青い警備員の制服を着て道路工事の交通整理をしているおじさんが、休憩中なのだろうか、ガードレールにもたれてペットボトルの飲みのもを飲んでいた。真っ黒に焼けた手や顔の上半分とは裏腹に、口のまわりはマスクのかたちに白い跡がのこっていて、頬にはご丁寧にマスクの紐のあとがくっきりと描かれていた。わたしは外に出る時、日焼け止めも塗っているし、日傘や帽子などで直射日光にあたらないようにしているが、いったいどれだけの人が、この夏、家に帰ってマスクを外して、鏡の自分の顔を見て、幻のマスクをそこに見たのだろうか。まただ、信号で止まってふと道の反対の植え込みを見ると、鮮やかなオレンジ色の花が揺れていた。わたしはいま、ワクチンの接種を受けるために接種会場の病院に向かっていて、以前にこの道を通ったことはない。ノウゼンカズラというのは、何年かに一度の周期で花を咲かせるようになっていて、今年がその年だったのではないか、というくらいに今年はとにかくたくさん、ノウゼンカズラを目にする。ワクチンの接種には、わたしは個人的にはあまり積極的な姿勢ではなかった。出来ることならば打ちたくないと思っていた。副反応で騒いでいる人たちのことを見ていると、どこまで本当に関係があるのかどうかはさておき、そういうリスクが少しでもある限り、出来ることならばわたしは打ちたくなかったし、実家の両親も、どちらかというと反対していた。だが、この夏を迎え、いよいよそうも言っていられないのではないか、という状況になってきたように感じることが増えた。先の知人の男性もそうだが、少し前までは知る限りの身近には感染した人の話は聞かなかった。わたしの彼氏の仕事関係でも、五人でやっていたプロジェクトのメンバーのうち三人が感染したという話があったりした。対面ではなく、フルリモートで取り組んでいたプロジェクトなので、感染した三人はそれぞれ皆まったく別のルートからウイルスをもらってきたということになる。彼氏ともうひとりのメンバーは感染していなかったが、プロジェクトそのものの存続が危うくなり、いまは一時的に稼働が停止しているのだと昨日、彼氏はラインで言っていた。わたしの彼氏は、この状勢にも関わらずむやみやたらにお店に飲みに行ったりするような人ではないし、もちろんフェスに行ったりもしていなかったが、それでも、どこかで感染してこない、という保証はなかった。もちろんわたしにしたってそれは同じだ。お店に飲みに行ったりはしていないし、フェスにも行っていないが、伝染されない保証なんてどこにもない。もう別れてずいぶん経つが、去年、いっとき付き合っていた前の彼氏は、平気で飲みにも行っていたしマスクもあまりしていなかった。一緒に過ごす相手としてとても不安だったし、そういう無用心な価値観の相手と、これから先の日々を過ごしていく自信がわたしにはなかった。共通の友人から、そのわたしの元彼がウイルスに感染したという知らせを数ヶ月前に世間話の中で聞かされた。そのことを聞いても、プラスにもマイナスにも、わたしは特に何も思わなかった。ザマアミロともアンノジョウとも、なにも思わなかった。いまの彼氏とは週に一度程度会う関係だが、いつも、セックスをしながら、運命を共にしているような感覚になって、少しだけドキっとする。もちろん、それは単なる高揚感のような感じのものではない。端的に言ってしまえば、相手が誰であろうとも、いま誰かと肌を重ねるという行為がリスクでしかないという事実に、毒を舐めたりナイフを素手で掴んだりするのに近い感覚を覚えるのだと思う。わたしは毒を舐めたりナイフを素手で掴んだりしたことはないので、これはあくまでも想像だが、ゆっくりと寿命が縮まる感覚、とでも言うのだろうか。これも吸ったことがないのではっきりとはわからないが、タバコを吸うのにも似ているのかもしれない。確実に、しかしゆっくりと寿命を縮める行為。セックス、つまりは生殖行為は、本来は、何かを生み出す、生の行為であるはずだ。そのセックスが、だいぶ遠回しにではあるとはいえ、自分の寿命を縮めているかもしれないということに、複雑な気持ちになる。それでも、その背徳感がわたしたちのセックスをよりドラマチックに彩っているのかもしれない、という気がするのもまた事実だったりするように思えたりもする。彼はわたしの中に体の一部を収めたまま、生まれてくることのない種を、ラテックスの皮膜越しに射出する。最後に彼とセックスをしたのは四日くらい前のことだが、今の時点では、彼もわたしも、症状がでたりはしていない。もしかすると、わたしと彼のどちらか、あるいはふたりとも、既にウイルスは体内にいて、しかし、たまたまふたりとも発症していないだけなのかもしれないが、検査を受けたわけではないし、それはわたしにも彼にもわからない。おそらく彼にとってもそうであるはずだが、わたしにとっては、マスクをしないで最後に会った他人は彼だった。予約の時間ちょうどに病院に着いた。あまり早く着いても待たされるかもよ、とわたしよりも少し先に接種を済ませていた彼に聞かされていたので、なるべくちょうどにたどり着くようにした。わたしよりも前には既に数名が会場に来ていて、赤い布のベルトで塞がれた自動ドアの前で待っているひとたちがいた。わたしが着いたのとほとんど同時にベルトが外されて、接種会場の中への案内が始まった。予め用意しておいた書類を受付で出して、名前や生年月日を確認されて、医師であることが名札に記されている白衣を着た初老の男性と少し話して、それから接種ブースに案内されて、慣れた手つきの看護師にTシャツの袖口をめくられて、注射を打たれた。そうしてあっさりと接種は終わってしまった。接種後すぐに具合が悪くなるひともいるから、という理由で、接種後は、席に番号が振られた待合席で十五分待機するようにという指示があった。わたしの席には三番と書いてあった。それから十五分経っても何も起こらなかったので、わたしは席を立って、建物の外に出た。エアコンの効いた空間から屋外に出ると、暑さが際立って、さっきよりも暑くなったのではないか、という気がした。注射の痕が少しだけ痛いような気がしたが、それ以外は、何も症状のようなものは出ていなかった。ワクチンが遺伝子を書き換えてしまうとか、ナノチップが入っているとか、そういう話をまことしやかにして、ワクチンに反対しているひとたちが世の中には存在する。たったいまわたしが打たれたワクチンがそういうものだとは流石に思えなかったが、もしもあのチクリと一瞬で終わってしまう注射がわたしの人格や遺伝子を変えてしまうのだとしたら、少しだけだが、それはそれでなんだか面白いかもしれない、という気もした。もちろん、そんなことはあり得ない、と思っている前提があるからというのはあるのだろうにせよ、注射一つでそんなに人間が変われるものならば、変わってみたいような気さえもした。熱が出て寝込んだという人の話も聞いたりしたが、わたしの区で接種されているワクチンは、どちらかというとそういう反応が少ないと言われているタイプのものだった。あの注射でわたしの内側からわたしが変わってしまう姿を想像して、不気味なもの見たさのような気持ちで、わたしはそれがやっぱり少しだけ面白いと思った。接種終わった〜いまんところなんにもなさそう。と彼にラインを送って、わたしは来た道を駅まで戻り始めた。さっき見たのとは別のところにもまた道沿いにノウゼンカズラが咲いていた。ワクチンの接種率は上がっているようだが、それで全てが元どおりに収まるようには、少なくともわたしにはいまのところは思えない。ウイルスを押さえ込むのに成功していたとされる国で爆発的な感染拡大が起こったり、新しいタイプのウイルスが出現したり、というような情報をニュースなどで見聞きするたびに、何が正しいのか、この先どうなるのか、まったくわからなくなって、不安な気持ちになる。お疲れ様、無事そうでよかった。彼からそう短くラインの返信が来た。彼もわたしも、絵文字やスタンプをほとんど使わないから、必然的にそういう短いやりとりが多くなる。わたしもそういうコミュニケーションのほうが性分に合っているような気がするので、嫌ではない。この先のことを考え始めると、確実に、以前と同じ世界にはもう戻れないのだろうと思えてきて、途方もない悲しみに包まれそうになる。何も気にせずにビーチに寝転がったりプールで泳いだりして過ごした夏も、マスクをしないで街を歩いたりすることができた日々も、いまとなっては遠い昔のことになってしまった。ノウゼンカズラに見張られながら、ウイルスに怯えながら、わたしは、きょうも、生きている。

(2021/09/02/21:39)

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