めかぶそばと山芋そば
夏の始まりだったか、あるいは終わりだったか、そのあたりの記憶が定かでは無いのだが、その蕎麦を結衣と二人で食べたことは、確かに記憶にある。季節限定のメニューとして販売される、めかぶそばと山芋そばを確かにふたり並んでこの店で食べた。結衣が山芋そばを頼んで、俺がめかぶそばを頼んだこともはっきりと覚えている。どちらの蕎麦もアクセントに練り梅が添えられていて、梅を溶かしながら食べるのが美味しかった。それぞれのそばを突きながら、結衣はわたしもめかぶそばにすればよかった、と呟いた。山芋そばも美味しかったが、香りと歯応えがよく、さっぱりつるっと食べられるめかぶそばのほうが、より美味しいと、俺も確かに思った。ふたりで過ごしたのはだいたい三年くらいだったが、日々、記憶が薄れていくのを感じる。目の前の出来事に追われる毎日で、それどころではない、ということもあるが、ふとしたときに、記憶や出来事を振り返ろうとして、すぐに思い出せないことに驚いたりする。そんな些細なことを全て覚えていられるわけがないし、覚えていなかったとしてもべつに不思議ではないのかもしれないが、たとえば、めかぶそばと山芋そばを食べながらなにを話したのかを、まったく思い出すことができない。いろんな店に行って、いろんな食事を共にしたはずだったが、この店でこの話をした、そういうことをうまく思い出すことができない。時間の価値や密度は、科学的に考えれば変わることはない。長く感じる時間も、あっと言う間に過ぎてしまった瞬間も、同じ速さ、同じ濃さで流れている。だから、いまこうしている瞬間も、それからたとえば結衣と一緒に蕎麦を食べていた時間も、同じ速さで同じ濃さで、時間は流れていたはずだ。ただひとつ違うのは、どう抗っても遡ることができない、ということかもしれない。もうここに結衣はいないし、結衣とふたりでこの店の蕎麦を食べることは、きっと二度と無いだろう。結衣と別れてから、違う彼女ができたりもしたし、他の女の子と会うことがないわけでもない。それに、結衣への未練はもうないし、また一緒に過ごしたいとも、まだもっと結衣と一緒にいたかったとも、まったく思っていない。だが、共に三年もの間を過ごしたわけだし、べつに今更わざわざ赤の他人にならなくたっていいだろう、などと思っていた俺とは裏腹に、結衣は俺との接点を一つずつ、着々と切って、俺と言う存在を少しずつ自分の新しい生活から切り離していった。それこそ別れた直後は、仕事の相談からちょっとしたトラブルシューティングまで、いろいろと結衣のほうから連絡が来たりもしていたのだが、時間が経つごとに連絡が来なくなり、ある時気がつくと、インスタとツイッターをブロックされていた。もう俺との関わりを断つ、という結衣なりの意思表明だったのかもしれないが、そのこと自体は大いに結構で、こちらとて結衣に用事があるわけではないので、もう連絡することだってないはずなわけだが、単純に、ふたりで過ごした三年間が否定されているような、なんだか寂しい気持ちになったような気がした。確かに、もう話さないしお互い用もないのならば、べつにSNSで近況を知ったりする必要もないわけだし、何も困らないはずなのだが、と言うことは俺だってもちろんわかっているにせよ、である。めかぶそばと山芋そば以外のものだって、ふたりで一緒にいろいろと食べてきた。だが、夏の訪れと共に始まった限定メニューのめかぶそばをこうして久しぶりに食べていたら、ふいに、また結衣と過ごしていた日々のことを思い出してしまった。こういう話を書いていること自体がそもそも女々しいのかもしれないが、これからも、季節の移ろいに合わせて、こうして折に触れて、結衣と過ごしていた日々の出来事を思い出してしまうのだろう、という気がする。考えてみると、誰かといた日々が、その人の記憶を記憶たらしめるのかもしれない。ひとりで来た場所やひとりで食べたりしたもののことを懐かしく、ちょっとセンチメンタルに思い出すことはあまりないような気がする。誰かと一緒に、あるいは誰かのことを想いながら過ごした思い出は、ふとしたときに感傷となって蘇る。あと何度かめかぶそばを食べれば、もう結衣と食べた日のことは思い出さないかもしれないし、違う誰かとまたここに来れば、その記憶で、結衣との日々も塗り替えられていくのだろうか。食べ終わっためかぶそばの丼をトレイごと下げ膳口に置きながら、俺はあの日、結衣が着ていた白いTシャツを、ぼんやりと脳裏に思い出した。
(2021/06/18/18:22〜9/2/20:36)
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