哲学の文章を精確に読むために
《哲学者にはあらかじめ守りたいものがあり、それを守ることを目的として理屈を並べている》という思い込みは、哲学の文章を誤読させやすい。実際には書かれていないことを行間から変に読み取ってしまい、それへの攻撃欲が増すことで、文章を精確に読めなくなってしまう。
例をひとつ挙げておこう。リベットの実験によって自由意志は否定されたという話は、メディアでよく紹介される。だが、詳細を見ていくと、この話には多くの飛躍があることが分かる。そこで、幾人かの哲学者は、リベットの実験からは自由意志が否定されないと主張する文章を発表する。
ここから、どんなふうに誤読が始まるのか。一部の読者は、そうした文章の書き手が自由意志を守りたがっているという背景を勝手に読み取る。そのうえで、《自由意志を守りたがっている哲学者が、自由意志を否定する科学に抵抗している》という、ステレオタイプで誤ったストーリーを思い描く。
しかし、注意してほしい。その書き手は文字通り、リベットの実験からは自由意志が否定されないと主張しているのであって、それ以上のことは主張していない。それ以上のこととは、つまり、自由意志が存在するということだ。
その書き手は、自由意志の存在について中立的な立場にいるかもしれず、あるいは、自由意志は存在しないとさえ考えているかもしれない。それでもなおその書き手は、リベットの実験からは自由意志が否定されないと明瞭に主張できる。そして、この主張を通して、自由意志についてのより精密な理解を読者に促すことができる。
ここには、あらかじめ守りたいもの(結論)が決まっている競技ディベートには見出しがたい、哲学的な議論の良さがある。
自由意志は存在しないと考えている哲学者が《リベットの実験からは自由意志が否定されない》と主張するとき、不思議に思う人がいるかもしれない。自由意志を否定するという結論が一致しているのに、どうして異を唱えるのか、と。だが、結論だけを見たときにそれが一致しているかどうかは、哲学において重要ではない。哲学的な議論は、推論や分析を経てある結論が導かれてくる、その過程の全体を吟味するためになされるからだ。