自由意志論についての4つの覚書

科学が自由意志を否定するかを論じる前に、科学が自由意志を「肯定」するとしたらそれはどんな状況か(どんな実験結果が出ればそう言えるのか)を論じるべきだろう。もし、それがどんな状況なのかを言えないのだとしたら、《ある実験結果によって自由意志が否定される》といった形の議論には、疑わしい部分がある。つまり、そこでの自由意志の否定は、その実験結果によってではなく、より一般的な概念分析によってすでに果たされている可能性が大いにある。このとき、なぜ、その実験結果が自由意志の否定に役立っているように「見える」のかは、熟慮の必要な問題だ。

ここでのポイントは、リベットの実験などによって否定されたと喧伝されている意味での自由意志について、それを肯定し得る実験があるのかということだ。そして、もし、それがないのだとしたら(哲学の文章ではこうした「もし」を読み飛ばしてはならない)、同じ意味でのその自由意志について肯定実験をデザインし難いことのうちに、そこでの意味での自由意志がすでに概念的に破綻している可能性が示されている。

事実、リベット的な論稿はしばしば、自由意志を《先行する原因なしに生じ、身体運動を(偶然にではなく)ひき起こすもの》と非明示的に意味づけているように読めるが(そのように読まないと、準備電位の先行性を自由意志の否定に繋げ難い)、しかし、そのようなものの存在は概念分析の段階で十分に疑わしい。上述した、《そこでの自由意志の否定は、その実験結果によってではなく、より一般的な概念分析によってすでに果たされている可能性が大いにある》というのは、まさにそういうことである。

というわけで、上記の意味以外の自由(たとえばある種の、両立論の自由)については、科学的な実験からも多くの知見を得られるだろうが、これは当然であるとともに上記の話とは関係がない。

現代の自由意志論では、二種類の自由を区別することが多い。しかし、それらの呼び方にはちょっと問題を感じている。

よく見るのは「両立論の自由(意志)」と「非両立論の自由(意志)」という区別で――「意志」は付いたり付かなかったりする――後者は「リバタリアンの自由意志」とも呼ばれるが、「両立/非両立」というこの区別は、決定論との両立可能性の是非を表したものである。だが、そこで言う決定論がどんな種類の決定論なのかは確認されるべきことなのに(cf. 木島泰三『自由意志の向こう側』)、その確認のないままに議論が進んでいくことは多い。

そして、説明の長くなる話ではあるが、決定論の是非そのものは、じつは自由意志論争の核心からズレている(だから、量子力学は非決定論的だという指摘のみによって論争が解決することはない)。「両立/非両立」という区別は、にもかかわらず、決定論の是非そのものに核心があるかのように見せてしまう点で好ましくない。

次に、「非両立論の自由」の代わりに「リバタリアンの自由意志」と言う場合、政治哲学におけるリバタリアン(自由主義者)とは異なるということを、いちいち断らなくてはならない。また、これはくだらない指摘に見えて、口頭で議論をするときには実際に困ることなのだが、「リバタリアンの自由意志」という言葉は、何度も繰り返して発話するには長すぎる。だんだんみんな面倒になって、たんに「自由意志」と言うようになることが多いのだが、そこから「自由意志」の多義性による議論のすれ違いが生じやすい。

さらに、これは相当に少数派の考えかもしれないが、私は個人的に、「両立論の自由」と呼ばれてきたものの多くには決定論と両立できない要素が含まれている――つまりそれは厳密には両立論的でない――と考えており、それゆえ、「両立論の自由」という表現はますます使いたくない。

そんなわけで、より良い区別(呼び方)の使用例を探してきたものの、まだ、これというものは見つかっていない。たとえば、「浅い/深い」の区別だと私的な価値判断が出過ぎているし、「デフレ/インフレ」風の区別もいまいちだし、「消極的/積極的」の区別はニュアンスが異なる。どこかの先行文献でより良い区別を見たことのある方は、ぜひ教えて頂きたい。
(個人的には、「単線の自由」と「分岐の自由」という区別が一番しっくり来るのだが。)

リベットの実験の問題点について、日本語で読める平易な本としては、アルフレッド・ミーリー『アメリカの大学生が自由意志と科学について語るようです。』(蟹池陽一訳、春秋社)によくまとまっている。邦題はかなりくだけているが、原題は A Dialogue on Free Will and Science であり、信頼のおける内容だ。私も『心にとって時間とは何か』の第2章で、ミーリー(メレ)の他の本などを参照しつつ、リベットの実験の問題点を列挙した。ただし、たんに問題点を挙げて批判的なことだけを述べているのではない。たとえば次の一節を引いておこう。

引用:「この実験は、一部の人々が述べているほど自由意志にとって深刻なものではないが、しかし、一部の人々が述べているほど無益なものでもない。過大評価と過小評価を避け、実験そのものを眺めるなら、Wの時点に何らかの心理現象が生じていることは、もしそれが意思決定とは別の何かであっても、検討する価値を十分にもつ。そして、たとえこの実験結果を疑う場合でさえ、どこがどのように疑わしいのかを明確に述べることができれば、自由な行為とはいかなるものかの理解も着実に進むだろう。メレによる先述の議論は、まさにその意味で生産的なものである。」(pp. 59-60)

李太喜さんによる『アメリカの大学生が自由意志と科学について語るようです。』の丁寧な書評はこちら:
https://tarb.yamanami.tokyo/2021/08/0028-alfred-mele-free-will.html

リベットの実験を検討した、邦語のオープンアクセス論文としては、たとえば下記:
鈴木秀憲「自由意志と神経科学:リベットによる実験とそのさまざまな解釈」科学基礎論研究 40(1)
鈴木貴之「脳科学と自由意志」科学哲学 42(2)

自由意志がもし幻想であるなら、強制の意味での「不自由」も幻想となるだろう。世界には「させる」ものも「される」ものもいなくなり、「起こる」ことだけが残る。この点を見ない自由意志否定論の多くは、自由意志の幻想にむしろとらわれており、脳を「させる」ものとして擬人化してしまう。

引用: 
脳神経科学の今日の発展は、二十一世紀が脳の擬人化の時代となることを予見させる。たとえば強迫性障害の患者による強迫的行為[…]は当人ではなく「脳がさせている」のだ、といった種類の認識が、あらゆる人間のさまざまな行為に拡張される時代が来ることを。脳が「させる」側のものとして、すなわち操作の主体として擬人化されることで、その支配下にあるすべての人間は「本当は不自由な存在」と見なされる。ここには概念的混乱が――脳と人間が別の主体かのような――あり、分岐問題も回避されたままだが、それでもこの擬人化は進行し続けるに違いない。
『時間と自由意志』187-188頁

引用: 人間は自らの自由をそれが何なのか不明確なままに脳に比喩的に譲渡することにより「不自由」な存在となるが、この構図はどこまでも、われわれ人間の側から意味を与えられたものだ。脳がわれわれに何かを「させる」ことができるのは、脳を自由の主体として擬人化しうる限りにおいてのことであり、その擬人化が終わるとき、「させる/される」という観点もまた消える。人間が自らを完全に不自由と見なし、脳に比喩的に譲渡しうる自由がその概念的源泉において枯渇した際には、もはや脳が「させる」側にあることの意味を理解することもできない。
『時間と自由意志』187-188頁

引用: 人々が今日、脳操作による社会改善に種々の倫理的躊躇を抱いているのは、人々がまだ自らを「本当は不自由」とは信じていないからだ。すなわち、医学的な脳への手技や、その手技の倫理的許可といった行為について、それらを行なうか否かの自由を、人間が手にしていると信じているからだ(そうした行為もまた医師や政治家などの脳活動の産物であることは無視して)。[…]あらゆる人間が「本当は不自由」であるなら、操作の主体はもはや存在せず、脳もまた「させる」ものでも「される」ものでもなくなる。人間や脳やその他のあらゆる事物は無自由な――不自由ではなく――存在となり、単線的決定論か偶然だけが世界の実像を描くものとなる。
『時間と自由意志』188-189頁

(この記事は https://twitter.com/aoymtko のツイートを編集したもの。)

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