「2023年、6月」:プライド月間をめぐる暴力と抵抗についての試論|運営メンバー
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今回の文章は、まず第一に昨今ますます激化するヘイトクライム・ヘイトスピーチ、ならびに人権侵害の「正当化」への抗議声明として書かれたものです。世の中で起きている種々の「事件」が、いかに私たちにとって他人事でなく、抗議するべきだと考えているのかについても書くことを試みます。同時に、「プライド月間」と呼ばれるこの1か月において事件や加害が起きることの意味と問題性を、様々な角度から考えることを提起したいと思っています(執筆者:T)。
※このエッセイでは、ヘイトクライムやヘイトスピーチを題材として取り上げており、攻撃的で暴力的な内容、エピソード紹介を含みます。なるべく抽象化するように努めていますが、お気をつけください。
吹き荒ぶ風、正当化された暴力:2023年、6月
2023年6月は、何だかとても不安定に、そして不穏な空気をもって訪れたように思う。例えば、突然暑くなったり寒くなったり、やたら早い台風が生活を脅かしたりしている。気候や気圧の変動に厳しい人々にとって、ただでさえこの季節は梅雨というだけで大変なのに、より不安定な日々だといえる。天候のことと体調のことばかりは仕方ない。そう思いながらも、それでもなお不調をおして働いたり、動いたりしなければならないことの規範性について考えてみる。
社会へまなざしを向けてみても、日本社会において人種差別に基づく不当な法案が強硬に可決されようとしている*1。議論の過程でつまびらかになる映像を前にして、もしかしたら、私たちできることは、現に(文字通り)暴力をもって不当に地面へ押さえつけられる人々の姿や、弱りゆく躯体を弄ぶさまを、ただ「見る」こと──あるいは、記録として撮り続けることしかできない無力なカメラに自身を重ねることくらいしかできない現実を反省的に引き受けることくらいかもしれない。同時に、私たちが向き合うべきは、そういった己の特権的ポジションから降りて、暴力と抑圧とが社会的正義として「正当に」認められようとする政治的アリーナがあることを認知し、黙って観客となるのではなく、身を乗り出し、いかにして抵抗するかという問題である。
「プライド」月間、それでも……
マイノリティはいつ、どこにいるのか∶実存と「Happyの利用」
人権が軽んじられている、あるいは軽んじられてきた2023年の6月という時空間が、「プライド月間」(Pride Month)*2として祝されるべきはずのものであることはきわめて皮肉である。私自身、プライド月間を象徴する「Happy Pride!」というワードとこだまする歓声とを、参加したプライド・パレードで私は何度も耳にした。ただし、現実をふり返ると、沿道にこだまする〈Happy Pride!〉……それはまさにまだ実態を持ちえない「木霊」のようである。
前提として、性的マイノリティはプライド月間になったら突然生まれ、祝われるべき存在ではないという、当たり前のことを確認しておかなければならない。すなわち、性的マイノリティの「生」は(そうとみなされようがみなされなかろうが)つねにあり、性的マイノリティの「性」は既に抑圧されてきた。性的マイノリティへの抑圧は、都合のよいキャンペーン対象という「政」によって、今まさに行使されている。こうした状況を受け入れる人々や状況自体に受け入れられやすい人々にとって、これらはより多様な社会の実現が途上あるいは実現された段階にあると考えられるのかもしれないし、「Happy Pride!」という歓声はただしく祝祭のメッセージなのかもしれない。しかし、一連の状況によって結果的により激化する差別のことを思うと、私はこの状況へ与することがためらわれる。もちろん、当事者のなかには、それらを踏まえてなお「Happy」だと発することに意義を感じているのかもしれないし、みんながみんな「Happy」の意味をストレートに解釈しているわけでもないとは思うし、それを一方的に解釈することはできない。それでも、「Happy」がある種政治的に逆利用されてしまっていることには、一定の留保が必要ではあるだろう。
祝されるべき時空間と行使される暴力∶「Pride」とはどのようなものか
現に、「Happy Pride!」と祝われるべきプライド月間において、性的マイノリティをめぐる悲惨な事件が多く起きていることを、私たちは透明化してはならない。
6月2日、香港にて、レズビアンカップルが白昼のショッピングモールで刺殺される事件が起きた*3。映像はSNSを通じて拡散されている最中にあり、日本の当事者や支援者たちをはじめ多くの人たちにも深刻な心的ダメージを与えている。私が読んだ投稿のなかには、パートナーと共に歩いていたときに罵声を浴びせられた経験と重ねあわせながら、いつどのような暴力や命の危機にさらされるかわからないと怯える投稿があった。私はこれを、誇大妄想だとはとても思うことができない。
そして、6月3日、日本。とあるトランスジェンダー当事者の弁護士に対して、猟奇的な殺人をほのめかす殺害予告が届いたという衝撃的な報告がSNSで掲出された。私たち「青山さんを支援する会」もSNSにてヘイトクライムへの抗議を表明したところである。トランスジェンダーへの排除言説が日増しに酷くなっていく状況下におけるこのような事実は、絶望を与えられ続ける当事者たちをさらに奈落へ叩き落とす。かれらがあげる絶望の声は、根拠をもたない被害妄想などでは、決してないのだ。
「Happy Pride!」と発話されるとき、そのPride=「誇り」とは、表面的には自尊心やプライドを指すものなのかもしれないが、前提として、あるがままに生きていて絶対に傷つけられないという安心や、当事者としての選択が脅かされることなく保証されることがあるはずだ。これは尊厳とも言い換えられる。当事者や支援者たちの尊厳が揺らぐような出来事が、「プライド月間」という祝意のひと月に立て続けに起こっていることの問題性を、"Happy" "Pride"を「利用する」社会はどのように考えているのだろうか(付言しておくと、2023年における6月=プライド月間はまだ一週間も経っていないし、「事件」はここでは挙げきれないくらい他にもたくさん起きている)。このような当然あるべきことから考えなければならないくらいの危うさを前にしてそれでも人々は無力なのか。
「2023年、6月」──ふたたび
何度目かの、前提への立ち返りをここでも行っておきたい。これまで挙げてきた様々な問題──入管法改正の議論にせよ、香港でのレズビアンに対するヘイトクライムにせよ、日本でのトランスジェンダーへのヘイトクライムにせよ、これらはストレートに「プライド月間だから」問題として語られるといったようなものではない。これらはいずれも普遍的な人権をめぐる問題で、いついかなるときも問題とされるべき事件である。私たちは、あらゆる差別と抑圧と暴力と人権侵害に対して、いついかなるときも、明確にNoを突きつける立場にあるということを明記しておきたい。
これまで述べようと試みてきたことは、「Happy Pride」と祝されるべきだとされるひと月に、すなわち、今の社会でつねに尊厳を脅かされうる人々の権利を保証する未来を目指し、実存を祝うべきはずで、現に企業や社会によって「祝われている」プライド月間において、これらの事件は同時に起きているということ。すなわち、建前上の祝祭と現実の事件という捻れ、あるいは祝意による被害の封殺可能性という問題についてである。同時に、捻れにだけスポットを当てるのではなく、一つひとつの事件や侵害それ自体を見過ごさないことの提案である。
社会的な祝意は、時に吹き荒れる風のように私たちを「お祝い」へ追い立てる。その風に乗り切れない人々の声は微かなノイズとしてかき消され、豪雨のように浴びせられる嘲笑とヘイトスピーチによって流されていく。風に追い立てられ、雨水を浴びて冷えた私たちは調子を崩し、寝込むことを余儀なくされる。外では勝手に物事が進み、舞台と客席があたかも自明であるかのように生成され、社会は劇場化されていく。だが、身を寄せ合い、温めあい、微かなノイズをすぐ隣で漏らさず、重ねていって、私たちはその「劇場」を壊すことができる。その時に、私たちは劇場の跡地を踏みしめながら闘争のアリーナを形成することができるのだ。アリーナにももちろん客席はある。しかし、そのとき客席には誰もいないだろう。客席に追いやろうとする重力を跳ね除け、私たちはまさにあらゆる差別へ抵抗する思想のもとに、立ち向かうことができるはずなのだから。
注
*1 2023年6月、日本政府はいわゆる「入管法改正」において、難民申請をより困難とし、強制送還をより容易くさせようとする法改正案を可決させようとしている。
*2 「プライド月間」とは、1696年6月27日に起こった、ニューヨークのゲイバー「ストーンウォール・イン」への警察の不当捜査、および、それに対する大規模な抵抗運動、その一年後に行われたプライド・パレードに端緒を発する、LGBTQ+の権利に関する運動やイベントを行い、権利向上を祝う時空間のことである。近年は、企業によるダイバーシティ&インクルーシブのひとつの象徴として機能し、各企業が積極的にキャンペーンを実施することでも知られている。
*3 「女性2人が死亡、ショッピングセンターで刺される 香港」CNN
https://www.cnn.co.jp/world/35204723.html