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雑記 1 始めた理由/カントを読んでいる

あらゆるSNSアカウントをインターネットの海に素のままで飛び込むストロングスタイルで運用しているため、あまり雑多なことを書けない状況にある。あれこれ思いついた事とか、考えをまとめるための下書きとか、聴いて良かった音楽とか、読んで感銘を受けた本とかあれやこれやと書きたいこともある。そうしないと自分でも忘れる。年齢を重ねるにつれ記憶の網目は少しずつラフになっているから、今はキャッチできていても、しばらくしたらどこかにこぼれ落ちて見つけられなくなってしまう。
(それでも残るものが一番大事、という考え方にまだ甘えたくはない)
書くという行為を通じて、自分自身の立ち位置や感覚をより明確にしたい、という気持ちもある。この世界における自分の輪郭をもう少し明瞭にしてみたい。などなど。そのためのnoteだろう、と思いついたけれど、元々のnoteアカウントも職務も兼ねたパブリックな内容に侵蝕されている。読み直したら素敵な記事ばかりでびっくりした。こんな雑文で場を汚すわけにはいかない。

ということで新しくアカウントを作った。
10秒くらい匿名にしようかと悩んだけれど、ほぼ自分と分かる状態にした。
属人性の強い特殊な事ばかり考えているし、ここで書き連ねたことを基に仕事や『日本現代うつわ論』のネタにするだろうから匿名にする意味もあまりないし、そもそも匿名にしたらたぶん続けられない。(日記とか「書く」ことについては昔から三日坊主だ。おそらく「書く」ことへの苦手意識が三日坊主を誘発してきたんだろうけども、その苦手意識の原因も最近分かってきたのでなんとかなりそうだ。これも書いて整理した方がよい)

早速、と言うには前置きが長くなってしまったけれども、今日のメモ。

このところはカントを読み直している。特に『判断力批判』をやり直す必要を感じて読んでいる。
なぜ今カントか?
『判断力批判』では「美」を厳密に定義して取り扱う。美とは純粋に主観的な判断で一切の経験に頼らず、目的性をもたないとカントは言う。つまり何かの役に立つとか、これまでの人生で出会ってきた美しいものとか良いものとか、世間的な判断基準に一切関係なく、ただ自分にとって主観的に美しいと感じられるものが美だという。これは今現代に生きる我々素朴な美意識、生活感覚や芸術への視線とは随分異なる。すぐには受け入れにくい。
しかしなぜカントがそのような定義をするか?カントは主観的判断力と、客観的判断を分離させた上で、それらと認識能力の他の部分との関係性の中で倫理的なものを目指すからだ。(詳しく書くとあまりに長いし要約するにもまだ確信を持った理解でもないからここで止める。)
僕がカントに期待するのは、こうした美と倫理の近しさによって、現代の芸術に人間性と美を、素朴な感覚として取り戻す回路が導きだせるのではないか?という点だ。そうして帰ってきた素朴な美的感覚と人間性によって、近年ないがしろにされがちな作者の作者性や「オリジナル」という意識やそれらを大事にするための回路を取り戻すことだ。
それを『日本現代うつわ論4』あたりで書きたいと考えている。

続けるハードルを下げるために中途半端なところで終わることにする。

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