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第6話 シルビアの優しさ

2008年
2月 

オフィスの奥からシルビアが笑顔で出てきた。手元にあった一枚の紙に市の都市開発部の住所と電話番号を書いて

「今からここに行ける? きっとその方が早いから自分でいきなさい。ここで私が書類を受け取っても、市役所から都市開発部に送られるのは来週になるから行けるなら今から行って書類を提出してきなさい。」

そう言って、僕が持っていた書類の全てに目を通してから、丁寧に丘の上のオフィスへの行き方と、何かあれば電話するようにと市役所のシルビアの番号をその紙に付け足して、また奥に戻っていった。

僕はシルビアが言う通りに表通りでタクシーを拾い、都市開発部のオフィスに向かった。細く張り巡らされたこの街の路地はそのほとんどが丘の上に通じていたけれど、車が通れる幅があるものは少なかったから、市役所のほぼ真上、丘の上にあるオフィスに向かうタクシーは街を縦断する一方通行の通りを抜け、さらに街中に張り巡らされたトンネルを抜けてほぼ街を一周する様に登っていく。丘の上にのぼると、世界遺産の街が一望に見渡せる。小さな箱型のカラフルな家、ペンキが塗られていないレンガ丸出しの家、骨組みだけを残して野生のサボテンに占拠されてしまった作りかけの家、そうかと思えば中世の面影そのままの立派な豪邸や修道院、教会がとにかく縦横無尽に散りばめられたその光景は本当におもちゃ箱をひっくり返したみたいで、僕だけでなく訪れる人全てを魅了していた。街を囲む山よりも少し低い丘の頂上には白い十字架が建てられていて、その遠く向こうには山の頂きに立つイエス・キリスト像が手を広げた上に青い空が続いている。宗教的にそれが何を意味するのかはわからないけれど、いつも笑顔で僕が理解できているか確認しながらゆっくりと話すシルビアの優しさのようで見ているだけで不安が消えていくようだった。

街を見下ろせる丘の上にある住宅街のまたその奥に市の都市開発部のオフィスがあった。わざわざ市役所と市の主要部署のオフィスを別の場所にする意図は未だにわからないけれど、この街の各部署はこんなふうに街のあらゆる場所に散らばっていてとても面倒だ。そう思いながら僕は5人目くらいの順番を待っている間、受付でどうやって説明すればいいのか?頭の中で知ってる限りのスペイン語を並べて台本を作った。

”挨拶は笑顔で軽快に、握手は相手の目を見て。営業許可を申請するために市役所に行ったら、ここに行けと言われて来たんだ。労働ビザを取る為にはどうしても営業許可が必要で、移民局からは必ず営業許可を先に取得してからでないとFM3は出せないと言われてて。。。”

列に並びながら繰り返し繰り返しリハーサルする。たいていの場合、相手の勢いに飲まれて台本通りいかないのだけど、異国の地で別の言語で話す時の台本作りは僕の習慣になっていて、少なくとも「う〜あ〜え〜っと」と言いたい事が全く言えずに涙を流した経験を沢山してきた僕はいつからかこうすることでお役所関係の対応を乗り越えるようになっていた。

ただこの日は、列に並びながら窓口の女性を観察していた僕の予想は的中して、僕の台本はまったく役にたたなかった。窓口の彼女は僕の笑顔にまったく反応しないし、握手もしてはくれない。それどころか怒ったような口調で聞いた。

「何の要件?」

その目は僕を見てるようで見ていないし、きっと今日は彼女にとっては最悪なバッド・デイなんだと自分に言い聞かせたけど、彼女の対応は今までの幸運をひっくり返すようなものだった。とにかく、僕が何を言っても、説明しても

「じゃあ、移民局がFM3を発行してから来なさい。」

の一点張りでラチがあかない。営業許可証の申請用紙を芯の丸まった鉛筆でコツコツ叩きながら、

「ここに書いてあるでしょう。オフィシャルの身分証明書って。貴方、スペイン語わかる?イデンティフィカシオン オフィシャル!」

と繰り返すので、そこから先には進めない。

思い浮かべることが出来る限りの「無愛想な人」をイメージして欲しい。その人を更に100倍にしたくらい愛想がないのだ。更に辛いのはオフィスの中にいる同僚には笑顔を見せ、僕の後ろの建築家らしき男には

「すぐ済むから、あと少しだけ待っててね。」

と愛想をふりまいていたから僕の心は折れそうだった。どうも自分は相当に嫌われているか、面倒くさいみたいだった。

「わかった?オフィシャルな身分証明書が必要ってここに書いてあるでしょ?パスポート?だめよ、パスポートはダメ。ここは貴方の国じゃないんだから。すでにFM3を申請している?なら、いいじゃない。発行されてから営業許可を申請しにくれば?」

「だけど、FM3を発行してもらうには営業許可証がいるんだよ。営業許可証は物件に対しての許可なんだから、僕がどうとか関係ナイじゃん?」

「そうよ。関係ないわ。だから営業許可証が欲しいなら貴方じゃなくて身分証明書を持ったパートーナーでもなんでもいいからその人に申請してもらいなさい。」

「だから。。。パートーナーなんかいないし、そうじゃなくて僕の名義で欲しんだよ。わかってよ。」

「貴方が自分の名義で欲しいのは私には関係ないでしょ。そうしたいならFM3を発行してもらってから来なさい。」

そう言いながら彼女は既に後ろにいる建築家の書類を受け取って目を通し始めた。僕はやり場のない憤りと喪失感で遂に心が折れてしまった。まったく話にならない門前払いをくらったのは後にも先にもこれだけじゃないけれど、彼女の態度はどちらかというと人種差別なのではないかと思わせるくらいの強烈なもので、この時の僕にはどうすることも出来なかった。

「まだ話は終わっていないよ!!」

と彼女と建築家の間に割り込んで話を続ける勇気もなかったし、せっかく抜け出せた無限のループにまた放り込まれた気がしてため息すらでない僕は窓口が並ぶカウンターで一人うなだれて動けなかった。

「どうしよう。。。」

彼女が鉛筆で丸をした申請に必要な書類一覧をみながら、もう一度自分が持ってきた書類を見直した。何度見直してもパスポート以外の身分証明書は持っていないし、移民局がくれたFM3申請の受理証も彼女にとってはどうでもいい一枚の紙切れになっている。これはもう一度移民局に行かなきゃ。と思ったその時、書類を挟んだファイルにピンク色の小さなポストイットが貼ってあることに気がついた。そこには「何かあれば電話しなさい。」と言って書いてくれたシルビアの電話番号が書いてあった。

ポケットから小さなノキアを取り出してカウンターの端で電話番号を押した。無愛想な彼女は僕のことなど気に留めることはなかったけれど、僕は一旦外にでて話始めた

「どう?うまくいった?」

シルビアの優しい声が身に沁みて、涙がでそうだ。

「いや。。どうやっても移民局でFM3を先にもらって来いって言われるんだ。。どうしよう?」

「おかしいわね?ちゃんとファティマと話した?渡した紙にファティマって書いてあげたでしょ?」

都市開発部に着いた僕は割と混んでいた列に焦って、列に並んだこと、暫く待った後に対応してくれた人がまったく相手にしてくれないこと、必要な書類の欄にオフィシャルの身分証明書が必要と書いてあるけれどパスポートではダメなことをシルビアに説明してから、彼女の言う通りにファティマを探してみた。警備員に尋ねると15分ほど待って建物の奥のオフィスからファティマが出てきた。大学を出たばかりという体格の良い彼女は僕を見つけると警備員に言って僕を奥のオフィスに案内する旨を伝え、僕は訪問者名簿に名前を書いてファティマと一緒に都市開発部の建物の中に入っていった。最初に僕を相手した窓口の女性は長い列に並ぶ人たちに笑顔を見せて対応を続けていて僕のことなどもう記憶にないようだった。
ファティマは僕がここに来る前に考えた台本通りの台詞を聞いたあと、事情はだいたいわかったと言わんばかりに話し始めた。

「移民局がFM3?を貴方に発行してくれるんでしょ??だったらそれを受け取ったら見せに来てよ。だから今日はとりあえずパスポートのコピーだけ添付しておいて。書類は私が受け取るから。」

「だけど、さっき窓口でパスポートはダメって言われたんだけど。」

「ダメだけど、FM3を申請してるんでしょ。だったらとりあえずそれで良いわ。窓口ではダメって言われたの?そうね。それがルールだから。でも貴方は今このオフィスで私と話しているんだから、窓口の事は気にしないでいいのよ。だから、FM3が手に入ったら必ずもう一度ここに来てそれを提出してね。約束よ。」

と言って僕が持ってきた営業許可証申請に必要な書類を全て受け取ってくれた。僕はなんだか拍子抜けしてしまったけど、その理由がシルビアだったと気づくには時間はかからなかった。大学を出たばかりのその子は実はシルビアの姪っ子の娘だったのだ。彼女は都市開発部長の秘書で、市役所からシルビアが事前に電話で僕が来ること、そして事情はある程度聞いていたことを話してくれ、シルビアは自分の親戚だと教えてくれた。

「弟」「姪っ子」「甥っ子」「叔母」「叔父」「娘婿」「友達」など

親戚が多いこの国の人達にはいたるところで家族が関係していることが多い。狭い街ならなおさら色んな場所で誰かの家族に出会うことができる。
シルビアの姪っ子は市役所の財政課で働いているらしいし、その娘である彼女が大学を出てすぐ配属されたのが都市開発部だった。結局のところ何かの申請に決済を下すのはその部署の長である彼女の上司であることには変わりないけれど、そこに至るまでのステップのどこかでこのような幸運の縁は今後沢山の場面で僕が経験することになっていて、それが、地球の裏側でお惣菜屋を始めるきっかけになるとは、思ってもみなかった。シルビアの親戚である彼女は営業許可証の発行には物件の安全確認の検査が必要でそれには1週間ほどかかるけれど、許可証の審査を同時に進めるから1週間経ったら営業許可証を取りに来るようにと僕に言い、電話で先に確認するようにと名刺をくれた。僕にはどう考えても1週間かかる物件の安全検査とその後に認可される営業許可証が同時に進められることが理解できなかったけれど、そんな野暮なことは気にしても仕方がないと少しづつ思えるようになってきていて、聞くのはやめた。わからないことは流れに任せた方が上手くいくような気がしていた。時刻表もなければ、バス停以外のところでも普通に停車するバス、運賃メーターはなく乗る際に交渉しないと毎度毎度違う金額を請求されるタクシー、銀行までも営業開始時間に開かないことも起こるこの街で、今まで通りの常識は何も役に立たない、少なくとも僕はそう思えるようになっていたし、窓口の彼女の僕に対する対応ももうどうでも良くなっていた。

都市開発部を出たあと、暫くタクシーが通るのを待ったけれど、丘の上の住宅街にタクシーが通る気配がなかったし、丘を見下ろせばすぐ真下に市役所が見える。僕は細い路地を街中へと降りて市役所へ向かった。

シルビアにファティマを紹介してくれたこと、そして彼女が全て対応してくれたことのお礼を伝えると、彼女はこう言った。

「気にしないで。全部上手くいくわよ。頑張ってね。私達は見ての通りコカ・コーラが大好きで肥満でほとんどが糖尿だわ。食べるのも飲むのも好きだから仕方ないわよね。貴方はなんてスリムなの?アジアの料理が健康に良いって聞いているけど、本当なのね!この街にはチャイニーズフードしかないのよ、それはとても美味しいけど、脂っこくて太っちゃうのよね。日本食ってヘルシーなんでしょ?隣の街に日本食レストランがあるけど高いから食べた事はないの。この街で美味しくてヘルシーな日本食が食べれるようになるなんて、なんて楽しみなんでしょう!私はここで働いて何十年にもなるし、これから定年まで数年だけどここにいるから、なんでも困ったことがあれば訪ねておいで。お店ができたらきっと貴方の日本食を食べに行くから。ビザが取れると良いわね。」

シルビアはそう言ってオヤツに食べていたクッキーを一枚僕に渡して、また奥のオフィスに戻っていった。

めちゃくちゃ甘いクッキー。でもめちゃくちゃ美味しいそのクッキーを頬張りながら僕の頭の中に一つのアイデアが浮かんだ。そのアイデアが今となっては僕のライフワークとなって続いていくことになるとは思ってもいなかったし、この時点では労働ビザもまだ取れていない。なによりもまだ何も始まってはなかったけれど、シルビアの優しさのおかげでまた大きな一歩を踏み出すことになって僕は嬉しくて仕方なかった。


つづく



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