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第5話 知らないことを知りならが進む

2008年
2月 

「これ全部?」

「そう全ページ。お願い。ちゃんと表紙の部分もね。」

文具屋のおばさんが面倒くさそうに、そして、疑わしそうに僕のパスポートの全ページをコピーしながら、苦笑いしていた。僕も同じように苦笑いしながら、ほんとに面倒だなと思いながらもそれがパコが丸印をしてくれた必要書類の一つだから、仕方なく笑顔でかえした。 

「そこにあるパソコンを使っていい?」

この頃、いや、今もこの街にはサイバーカフェがあって、その洒落た響きとはうらはらに、箱型の黄ばんだパソコンが数台ならべられている。僕の隣には制服を着た学生のカップルが一つの椅子に重なり合って座りながら下品な笑い声をあげているし、その向こうには文具屋のおばさんの彼氏らしき男がコピーをしているおばさんの尻を優しくなでていた。 

ウィーンと重たい音をたてながら黄ばんだ箱の画面がついて、Windowsのロゴがゆーっくりと浮かび上がる。そのパソコンで僕は申請レターを書こうとするけど、移民局に提出する申請レターをスペイン語ですらすら書けるはずもないし、見本もない。Windowsのロゴはまだゆらゆらしていて、いつまでたっても立ち上がりそうもないから、僕は諦めて隣の移民申請代行業を営む弁護士事務所に入っていって、ドン・ペドロに申請レターを書いてもらうことにした。

移民局に来てから、目の前にあるペドロの事務所のことはなんとなく気になっていたけど、どこか胡散臭いペドロの雰囲気に僕は身を構えていた。
だけど、結論から言えば、最初からペドロに頼めばよかったのだ。彼の事務所にはひっきりなしにビザ取得を依頼しにくるアメリカ人が出入りしていたし、移民局にもペドロにそっくりなペドロの弟がいつも大量の書類を抱えて移民局とペドロの事務所を行ったり来たりしていた。

餅は餅屋。

移民申請はペドロだ。

だけど、ペドロは完全に重要と供給のバランスがペドロ側に傾いてるこのサービスを象徴するかのような金額を提示していた。コピーに関しては文具屋のおばさんの3倍、レターは一枚書いてもらうだけでも当時の僕にはべらぼうに高かった。だから、その金額を聞いて、少し考えた後、何故かどう考えても自分で書けそうにもない申請レターを一度自分で書いてみようとしたんだった。
それなりに資金的に余裕があって、いつ終わるかわからない長い長いビザの申請を気長に待つことが出来る人、本当に頼んだ依頼が滞りなく進んでいるかなんて疑わずに待てる大きな心の持ち主は、ペドロのような専門家に頼む方がいい。でも、当時の僕にはその両方とも持ち合わせてはいなかった。ただ、時間だけは沢山あった。

場末の愛の巣のようなサイバーカフェで「自分で書くって言ったって、一体、何を書けばいいんだよ。。。」と半ばうなだれる僕の目の前にWindowsのロゴはまだゆらゆらしていて、変な音をたてていた。

時計の針は11時になっていて、後2時間でまた移民局は閉まる。目の前のパソコンはいつになっても立ち上がる気配がないし、立ち上がったところで何をどう書いていいかわからない。隣の学生カップルはなんの為にサイバーカフェにいるのかもわからないし、おばさんの尻を触ってる男も手を止めて仕事をする気配もなかった。

なるほど。。ペドロの商売が成り立つはずだよ。
観念して、戻ってきた僕にペドロは

「あれ?自分で書くんじゃなかったのか?」と嫌味な笑顔で僕に聞いた。

「で?何が必要なんだったけ?」

「FM3の申請レターを書いて欲しいんだ。」

さっき、言った同じ事をもう一度ペドロに話した後、ペドロも同じ様な事を言った。

「今忙しいから、そこで1時間くらい待てるかい?」

事務所のどこを見回してもそこにいるのはペドロと僕だけで、どこからどうみても忙しそうに見えなかったけれど、僕の顔を一瞥もしないで、手元の書類を分別しながら、ファイルにまとめて積み上げていく様子をみていると、待つしかないようだった。

「もう11時だけど、移民局が閉まるまでに出来るよね?」

「大丈夫。心配すんな。」

ここでは誰もが口にする魔法のフレーズだ。

「大丈夫。心配すんな。」 

そう言われると、大丈夫な気がするから面白い。本当は大丈夫じゃなくなったことも多々あるし、全く信用できないフレーズなんだけど。このフレーズを聞くとなんとかなる気がする。

「出来たよ。他の書類も見てやるから、見せてみろ。パスポートのコピーは全ページとったんだな。俺の方がもっとキレイにコピーするけど、まあいい。」

「ああ、今となりの文具屋のおばさんから受け取ったよ。ちょっとかすれて見難いけど。」

「ダメならダメで審査官がもう一度コピーを提出しろって言うから、とりあえずそれで出しとけ。」

ここでも、「とりあえず提出しとく」だ。ここではこれがどこでもそうだ。「とりあえずやっとけ精神」は何もない僕には丁度よかった。

ペドロは移民手続きの専門家で彼に頼めば手続きは全部やってくれる。だけど、もちろん費用はかかるわけで、僕はペドロに相談してみた。 

「これって、ペドロに全部頼めばどれくらい費用がかかるんだい?」

「正直言って、俺たちは移民局に行って、君たちの代わりに書類を提出して、足りない書類があるという通達があれば、君に報告する。それらを君が準備をして、俺たちが提出する。こうやって、レターも書いたりもする。もちろん、ここで長年こういうことやっているから、移民局の奴らとも関係が深い分、どうやったら審査が通るのかもわかりやすい。けど、まあ、それくらい慣れればお前でも出来るから自分でやりな。結局、あいつら移民局はころころ法律も変えるし、俺達が出来ることは代行くらいなもんだ。どっちみちお前が足りない書類を集めなきゃいけないし、レターも初回の申請時に必要なだけだから、後は自分でやった方がいい。時間があるならね。見ての通り俺は忙しいんだ。お前は暇だろ。それに、お前の依頼がなくったって俺は困りゃしない。わからないことがあれば教えてやるから、自分でやれ。」

よく考えてみればペドロの言う通りだった。ビザ取得を仲介、代行する人達はこの移民局にも沢山出入りをしていたけど、その人達は、時間がかかる煩わしい申請書類の提出や作成を手伝ってくれるだけで、例えば戸籍謄本などの申請者本人しか手に入れられない書類はどうしても自分で揃えるしかない。何を提出していいか、要求されている書類の内容などの情報や、何度も何度も移民局に足を運ばなければいけない手間、そしてスペイン語がわからない状況などを考えるとペドロの様な代行サービスを利用する方がいい。でも、確かにそもそもビザがとれないと何も進まない僕みたいな時間が有り余っている人間はペドロが言うように自分でやればいいんだ。そう考えながら、僕はペドロが作った申請レターに目を通した。 
目を通したって、何が書いてるかわからないけれど、この紙1枚がスタートラインに立てるチケットのようで嬉しかった。

ペドロは冷静に僕に言った

「それ、3枚必要だから、コピーしようか?」

笑 ペドロ。。。商売上手すぎ。。。だよ。


ペドロが「大丈夫。心配するな。」と言ったとおり、書類が全て揃ったのは昼の1時になる少し前だった。整理券を受け取った僕の前にはまだ10名ほどの人が待っていたけど、玄関の警備員は昨日と同じように無表情で入り口のドアと鉄格子を閉めて、後から来る人達を遮っていた。

「じゃあ、2週間後にこの番号に電話して。」

移民局のインテリ局員パコが僕の提出した書類全てに日付をつけた受理印を押し終えて、受理証と移民局の電話番号を僕に渡して言った。 

「これで審査が開始されるから、足りない書類があれば通知します。」

前日のやり取りがなかったかのような少し冷たい対応のパコとの時間は10分程で終わり、僕は移民局を後にした。 

何がなんだかよくわからないけれど、これで滞在許可証、いや、ペドロが書いてくれたレターには「労働許可証を申請します。」と書いてあったから、これで労働ビザの申請が始まったんだ。終わりのない手続きに足を踏み入れた気がしたけれど、これがないと始まらない僕はそんな不安を打ち消して帰りのバスに乗り込んだ。

次の日、移民局がくれた受理証を見たシルビアはとても不思議そうに僕に聞いた。

「これで、貴方にFM3が発行されるのね?」

「うん。だから、先に営業許可証を出してよ。この受理証がFM3の代わりになるって移民局の人は言ってるからさ。これを見せれば大丈夫だって。」

もちろん、パコはそんな事は一言も言ってはないけれど、ここ数日で移民局とペドロに鍛えられた僕は自信満々でシルビアに言った。

「他の書類は全部受理されて、足らないのは営業許可証だけ。FM3を取るには自分の名前が記入された営業許可証が必要なんだよ。シルビア、とにかくこれで申請してよ。」

卵が先か鶏が先か

どっちが卵で鶏かわからないけれど、自分が働く場所を証明出来なければ労働ビザが取れないことだけは理解できたから、僕はとにかくその場所を2週間以内に手に入れなければならない。闇雲にわけもわからないまま、勢いで契約した路地裏の物件がこんな形で役に立つとは思ってもいなかったけど、物件オーナーのディアナがサインした賃貸契約書もあるし、最初の家賃を払った領収書もあった。シルビアは移民局でもらった受領証に何度も目を通してそれが本物だってことを確認してから、

「わかったわ。これで営業許可証の申請を進めてあげる。だけど、許可がでるか出ないかは都市開発部の判断だから。そうだわ、私が今から都市開発部に電話してあげるから、ちょっと待ってなさい。」

そういってシルビアは奥に入っていった。

つづく






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