シン・俳句レッスン99
河津桜が満開となっていた。二月も今日で終わりだった。閏日だったのだが無為に過ごす。
今日の目標句。
正岡子規の時代はまだ桜は咲いていないと思うが、河津桜だったのか?ただここは「閏年や」だと字余りになるから「閏日」の方がいいのではないか?そっか、字余り的なのが閏年なのか?やるね。
言葉遊びの世界だった。
現代俳句の海図(田中裕明)
もう亡くなっていた俳人。45歳で亡くなったという。早逝の俳人と言えるのかもしれない。
十九歳の時の作品。寺山修司を意識しているのな?青春俳句という感じか?
正岡子規をイメージせざる得ない。伝統俳句の雄ということだった。ただ現在は田中裕明はあまり知られていないのではないのか?この句だったら子規の句の方が上で本歌取りとしては追想的なものしかないと思う。
高校生で波多野爽波(はたのそうは)の「青」に入会。このあたりで早熟な高校生だったのか?大学生の時に第一句集『山信』を出していた。
聖性だけのような気がする。若いということか?青竹だもんな。
二十二歳で角川俳句賞。
「夕東風(ゆうこち)に」が季語。古典的美意識という。俗がない句だ。現実といより精神世界という。塚本邦雄に通じるのかもしれない。
取り合わせの絶頂という。でもこれは雪舟の絵を知らないとよくわからない句だよな。「秋蛍」で数が少ないとわかるのか?芸術至上主義のような句なのかな。燃え尽き症候群みたいな。「時空」ということをキーワードに語られる俳人という。そうかもしれない。その「時空」を共有してないと感じるものは少ないような。
難解だな。「雪解野(ゆきげの)は」が季語か?雪解けした野原という意味。折口信夫みたいな感じなのか?そういうイメージを受ける。これは主観的な独善性が出すぎだいう。俗がないんだよな。西行を連想してもいいのかもしれないが。
波多野爽波が絶賛した句だという。「二十六萬色」はハッタリかもしれないが雪のキラメキを捉えていると思う。「二十六萬色」は識別可能な電子工学の知見によるものだという。そういうのがなんかなあという気がする。ハッタリの方が良かった。分析的になると歌が死ぬ。一般的な読者は疎外感を生むという小川軽舟の批評。疎外感というか、独り相撲という感じか?坪内稔典は擬古典派と呼ぶ。塚本邦雄みたいな感じか?
小林恭二『俳句という遊び』に参加。しかし存在感が薄いとの評価。
難解句の自己満足だと批評されて、簡易な作風に方向転換したようだ。先生というのは波多野爽波でこの年に亡くなって「青」は終刊したという。そのなかで静謐な孤独性が伺われるのかもしれない。この小鳥は囀っているのだろうか?
けっこう切実な句のような気がする。「水遊びする子」は幼い者の眼差しなのか?むしろ先生からの眼差しのような気がする。
発病した後の「爽やかに」は波多野爽波の幻想のように思える。どこまでも聖性な句を詠んだ俳人という気がする。そうした同世代の俳人たちから敬慕される最後の句集だったのだろう。
『天の川銀河発電所』(西山ゆりこ)
子育て俳句か?でも比喩が面白い。現代風か?
なるほど漫画的ではあるな。西山優里子という漫画家がいた。親戚ではないよな?
これも子供相撲だろうか?そんな感じがする。
これは平凡。なんか全然今日は俳句が出来なかった。
一句だけ。でもこの言葉遊び俳句は好きだ。