シン・短歌レッスン165
松下竜一『豆腐屋の四季』
松下竜一『豆腐屋の四季』から。
最初父の短歌が続きファザコンなのかと思わせて中程で母の思い出を語る。その母子愛が強すぎて新しい母を迎えたらその虐めが酷かったと告白している。そういうところがあるような家族愛が苦手だった。昔ながらの家族愛というような、ちょっとくどすぎる感じかな。もう少し突き放して見たほうがいいかもと思ってしまうのだ。
全体的に日常詠の情の世界の叙情性短歌がどうも好きになれない。短歌は上手いなと思うのだが巧すぎて作り過ぎな世界を感じてしまうのだ。なんだろう。愛ある家族というのは分かるのだが、他人が入りにくい家族のような。新しい母と娘が兄弟から追い出されるように出ていってとか。内輪性が出ていると思う。
飼っている犬が行方不明になり死んだと思っていたら野犬として生きていたという。そんな犬との再開後の歌か。信頼関係が伺える。
坂口弘
『坂口弘歌稿』から。
短歌や俳句に読書が出てくると読みたくなる。
天安門事件の歌。
大道寺将司の「狼」グループのことか。
天安門か。
誰の調書のことを言っているのだろうか?森恒夫だろうか?
どこだろう。常磐線に乗れなくなるな。東京拘置所だった。
坂口弘は花の歌をけっこう詠んでいた。大道寺将司は虫の句が多かったような気がする。
坂口弘はロマンチストな気がする。
死刑の場をイメージして詠んだのだろう。最終歌。
あとがきによると西行の『山家集』を読んで見様見真似で短歌を作り始めたそうだ。そして保護司をしている歌人の青木郁夫が指導したとある。
NHK短歌
テーマが難しいというか、自分の家は「いただきます/ ごちそうさま」も言わない家庭だった。だから家族というものに疑問を持つのだが、それを他人に指摘されて言わないとダメだよとか育ちが悪いと言われると腹が立つ。全体的にそういう家庭はおおいのだと言うのだが、個食という習慣が出来ているからではないだろうか?家族バラバラで食べる。例えば母は勤めに出ていたり、父が帰ってこなかったり。幸福な家庭が家族で食事をするとイメージはわかりすぎるぐらいにわかるのだが、そういう生活をそもそも出来ない環境の人が多いのかもしれない。
今の社会は不要なものはどんどん淘汰されていく方向にあるので、むしろ言わないほうが自然なのかなと思えてくる。個食ということが一番大きいのだと思うが。
あとテーマ意外の話で10年自分の作品がいいと思えるかというのがあった。それは他人が読んで初めて分かるということだった。10年後には自分の作品も他人になっているという。そこまで続けないでみんな止めてしまうという。
ただ一度も賞められなかったらもう無理なのじゃないかと思ってしまう。他のことに目をむけようとか。短歌なんて糞だと思ったり。まだ短歌はそうおもわないけど、俳句ではだんだんネガティブな気持ちになってくる。
「カレンダー」も「日記」も同じ感じのような短歌が出来そう。
『短歌研究 2024年 10 月号』
吉川宏志「1970年代短歌史」33
女性歌人の時代。ただ繊細に見ていくとその時代に男性歌人がいなかったわけでも、女性歌人でもすぐに消えてしまった歌人もいるということで、後の影響力や存在感が重要だという。その中で吉川宏志が上げたのが栗木京子と阿木津英(他にもいるのだが、気になった歌人だけ)
栗木京子は「観覧車」の歌が有名。
ただこの短歌が出たときは大柄で荒いという批評だった。今では模範的な詠みっぷりなのだが。一日と一生の対句表現など繊細さが残るという。選考会で特に問題となった歌が、
「男の群れ居る場所」が当時の女性としては大胆な行動と思われて大柄となったのではないかという。また「群れ」という言い方が大胆だった。
反対に阿木津英はフェミニズム短歌を詠み批評も書くのだが表現方法は伝統的であり、そのことが評価されたという。
新人賞受賞の言葉で短歌は男の伝統であって、女性は時代に押さえられていると。それを踏まえて読むと「紫木蓮」の情景といい「前髪ふかれてあゆむ」という颯爽と都市を横切る女性がいる。さらにこの頃話題になったのが河野裕子の「母性」発言で女性は産む性だから優位であるという、今なら保守系の国会議員がいいそうなことを書いていた。その発言に対しての歌だという。
短歌時評=田村穂隆「新しい批評語」
「ニューアララギ」はなんとなくわかるような気がするが「プロダクトとしての短歌」は読んだだけではさっぱりわからん。こういう批評語はつかわないに限る。早く消えてくれと思う。あとプリキュアが若者の短歌でも話題となっているという。そんなもん無視。
作品季評(第132回・前半)=小池光(コーディネーター)/花山周子/島田幸典
俵 万智「白き父」/阿木津 英「日本の〈うた〉」/浦河奈々歌集『硝子のあひる』
吉川宏志「1970年代短歌史」で阿木津英は取り上げられたが俵万智は取り上げられなかった。やっぱ好き嫌いは別にして、無視できない存在だと思うのだが、どうしたわけだろう。
ここでも俵万智のファザコン性がでているのだと思うが浦河奈々歌集『硝子のあひる』も父の死を描いた短歌だった。二人の違いはなんだろう。
これはカサブランカを引き詰めた棺桶に収めた父の姿が印象的な次の歌だという。その次に
という神妙な歌が続く。一方浦河奈々の父の歌は
俵万智とは逆に死ぬときまでは神妙な歌だが葬儀が終わるとあっけらかんとしている様子が現代っ子だという。
そんな二人の間で「日本の〈うた〉」というタイトルで時事詠を伝統的な短歌の言葉で読む阿木津英だった。
福島原発の歌だというが単独の短歌ではわからない。
自然詠の情景歌が魅力というのだが、読み飛ばしてしまいそうな歌である。
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