ベンヤミンの「シュルレアリスム」以降
『ヴァルター・ベンヤミン著作集 8 (8) シュルレアリスム』ヴァルター・ベンヤミン , 針生 一郎 (編さん)
シュルレアリスム
「シュルレアリスム」は、岩波文庫『暴力批判論』に出てきたので今回はパス。そのほかにも魅力的な考察があったので読むことに。主にシュルレアシスムを中心とするフランスの作家の素描と動向のようだ。ただベンヤミンの言葉はつかみにくいと思ってしまう。この時期は、ファシストの台頭と民主主義危機の時代。政治的立場としてコミュニズムの影響も伺われる。
夢のげてもの(1927)
シュルレアリスムの方法を取り入れるは、夢の解釈という精神分析を取らずにむしろ、対話者(精神分析家)との齟齬を明らかにする。それは、夢の中にあらわれる精神性というものがげてもの(まがい物)とすることを明らかにする。トーテムポールのげてものであると。むしろ、その過程の境界にこそ意味を見出すものか?意味ないものに意味を見出すというような。莊子の「胡蝶の夢」の中に遊ぶ感覚に近いのかもしれない。
アンドレ・ジッドとの対話(1928)
ジッドのインタビューから書かれたエッセイ。インタビューがその作家のある面しか語られないという。それはプルーストについて、ジッドが相貌性を否定的語っているのに対してフランスという精神について語っている。むしろそれをパスカルのようだとするベンヤミンである。
ベンヤミンはここではジッドの肖像画のデッサンを描くような素描に徹している。そのなかでジッドの言葉から伺われるデラシネという言葉。ある詩人はデラシネ(根無し草)であると宣言するほどにフランスという根っこを求めているのだいう。言葉が科学的(論理的)じゃないとも言う。フランスを離れてフランスを求めるようになる。
これもよく言われることだ。日本を離れて日本人になるというような。ベンヤミンはどうだろう。彼はドイツ人になれたのか?むしろデラシネ。ユダヤ人性を求めたのか?
ポール・ヴァレリー(1931)
ヴァレリーの素描なのだが、ジッドほどはっきり描かれてはいないような。ぼんやりしたイメージだった。詩人であり批評家で似ているのかもしれない。批評家よりはフランス象徴詩の系譜としての詩人としての評価だった。その60歳の誕生日にの書かれたエピグラフがいい。
「塩気を含んだ話し方、
これこそまことに海の言葉です」
フランス作家の現在の社会的立場について1934
「シュルレアシスム」の続編というような考察。その後のフランス文学か。ドレフュス事件後のフランスが二つの潮流に分裂した(プルースト『失われた時を求めて』の現実)中で政治的になる文学を拒否する大衆文学という流れは右傾化の一つと見る。セリーヌの場合のような。
ルンペン・プロレタリアの自由が蜃気楼のようになっていくと。その中でのプルーストとジッドの例外性。シュルレリスムの以外の作家の動向について。ジッドのコミュニズムの変化について。
「民主主義の精神について、それがもっともとらえやすく思えるのは、それが非社会的であることだ」
シュルレリスムもアラゴンやブルドンもコミュニズムに分裂していく。
パリ書簡1936
文学の危機について。フランス(世界的な潮流か?)でのファシズム台頭する文学とそれに対置する作家としてのジッドの抵抗。ソ連の表現主義からプロレタリアの変質。未来に向かって書かざる得ないジッドの苦境は、ベンヤミンの文学的立場を共有する。