アメリカの創作クラスの小説?
『十二月の十日』ジョージ・ソーンダーズ, (翻訳) 岸本佐知子
中世テーマパークで働く若者、賞金で奇妙な庭の装飾を買う父親、薬物実験のモルモット……ダメ人間たちの何気ない日常を笑いとSF的想像力で描く最重要アメリカ作家のベストセラー短篇集。
こういう短編小説は苦手だった。話の最後に落ちがあり感情を揺さぶるというやつだった。でも小難しい小説なんだよな。おバカなSFというが、ディックやオーウェルやピンチョンを連想したけど違った。ヴォネガットが一番近いかもしれない。でもヴォネガットの冗長さもないし、チェーホフがいいところだろう。それはないか?
ビクトリー・ラン
ピンチョンのような語りの文学か?スラングで語るがアメリカ文学を踏まえている。強姦の話はフォークナー『サンクチュアリ』を連想させる。
露助といわれる強姦魔が登場する底辺スラム街の話。フォークナーの時と違うのは暴力性は排除されるからだ。意識の流れを踏まえている。多言語的なのか?
棒きれ
アメリカの保守的な宗教観が出ているような。棒きれだけど崇めたい。崇めなければならない生活苦があるのかも。
子犬
子犬を飼う話と庭にハーネスで鎖に繋がれた子供の話が交差する。
スパイダーヘッドからの逃走
ディック的な語り。映画『スパイダーヘッド』との違いはパロディー作と徹している。受刑者の治療薬投与にしても、欲望の薬と言語脳に働く薬を同時に注入するから、一方では欲望的に振る舞うがもう一方の欲望は文学的に振る舞う。詩とか書いちゃう人のような。そういう感じのパロディー。
訓告
どこかの事業本部長の「訓告」で語られる短編。一人称で語られるので読みやすい。まあ通常の企業の訓告とそう変わらないと思うが、これがパロディーであるということだ。この訓告を素直に読む人はいないだろう。でも最近こういうのを素直に読んでしまう人が多くなったのは事実だ。埃の被った棚を掃除するときもポジティブであれ。本部長は海岸に打ち上げられた腐敗したクジラをも片付けることが出来たのだ。それと何の関係があると突っ込まないだろうか?海兵隊員が号令をかけったって?勝手にやってくれ。
話のポイントは六号室だ。そこで何をやるセクションなのかはわからない。文学通はチェーホフ『六号室』を思い出すだろう。文学通じゃなくても読んでみる価値はあると思う。
センプリカ・ガール日記
日記文学。ちょっとオーウェル『1984』を連想したのは、日記の語り手が今の人よりも未来の人に向けて日記を書いているということ。そこまで重要な日記か?というとおこがましいのだが、そのへんのギャップが自虐的な笑いとして文学として成り立っている。
ただちょっとウェット過ぎるのかなとも思う。家族の話だし、娘を思う親の心情として誰もが理解出来るように書かれている。
ところでここに出てくるSGが何を意味しているのか最初はよくわからなかった。庭を管理する下僕の移民をSGと呼んでいるのだ。それは管理会社のシステムとして組み込まれた人間なわけだった(ディックのアンドロイドのような)。娘のために素晴らしい庭を見せたいと思った父親が宝くじを当てて、その庭をプレゼントするのだ。
庭と言っても金持ちのシンボル的存在で、池があったり寛ぎスペースとして、植物やらの管理が十分行われているのだ。まあ狭い日本の住宅、特にアパートやマンション住まいの人にはよく分からんけど、庭を作ることがステータスになっているようなのである。そう言えばハリウッドスターの庭にはプールがあって、よく管理されているけどあんな感じか?
この語り手の場合、その前に地下倉庫のどうしようもない荒れ模様を描いている。浸水してダンボールが崩れ、ネズミの死骸を誰も片付けようとしない。ペットの犬のフンでさえ、片付けるのが嫌なのだ(誰がやるかそれを見ないふりをして、結局父親が片付ける)。
そういう面倒くささを管理してくれるシステムとしてSGがいるのだが、それを子供たちが逃したということで管理会社から莫大な請求をされるという話になっている。まあ、子供たちがしたことは許せないが、そうかと言って子供を愛さない父親ではない。そのギャップ。まあ最初は娘の誕生日のプレゼントとしての目的で綺麗な庭を見せたいという親心。しかし他の娘には何も与えていなかったのだ。その僻みが根本としてあり、それは隣の芝生を羨む自分にも当てはまるということだった。
ホーム
誰も自分の母親を咎めたくない。それだからと言って母親の差別用語を容認することは許せないと思う。それがピーッ音なんだと思うが、それで検閲すればいいかという問題でもないと思う。それはいくらピーッ音で隠されようとも元の意味は文脈でわかるものだから。母親の差別意識は隠せようがない。
基本的な問題としてこの『ホーム』が一番良く作者のスタイルが出ているかな。ワスプのアメリカ社会の現状認識だと思う。ワスプでなければプア・ホワイトでもいいのだが、結局は下には下がいることでアイデンティティを保っていられるのだ。おバカなSFということでヴォネガットに近いと思うが決定的な差異は現状社会を認めるか認めないかの差だと思う。ヴォネガットは認めることが出来ないが故にファンタジーの世界を描いた。その深層には苦難の経験があるのだ。『母なる夜』という作品に感銘するとしたらそんなところだ。
十二月の十日
12月10に氷の湖に男の子が落ちた話だが、それを助けた男がいて彼と男の子の関係がさっぱりわからなかった。男は自殺しようとしたようなのだが、なんでこんなわかりにくく書くのだろうか?
最初はヒーローごっこの話。ロビンというからスーパーマンだろう。これもわかりにくいと思ってしまうのは地底人が出てくるから。戦勝国のアメリカにしてみれば地底人はイラク人とかアフガンとか、日本人も昔は地底人だった。沖縄戦での話。慰霊の日に近くに読んだ俺の間違いだったのか?
解説で子供がいじめられっ子だとあった。どこが?母親に話が出てきたからあのへんか?ほんとこういうところが分かりにくい。また男も自殺なんだか子供を助けたのかも分かりにくい。その両方なのか、夢なのか?結局何が言いたいのか。
氷の死は冷たいということか?生きているお前たちは幸せだろうということか?etc.etc.
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