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シン・俳句レッスン122

ドクダミ

「どくだみ」、俳句では否定的なことばを嫌うので「十薬」とか使われるようだ。同じ日本を代表するハーブなのに蓬は文学になり(『源氏物語』「蓬生」が有名)、歌にも読まれたりするのだが、十薬は少ないようだ(歌はあった)。どくだみ茶はほとんどハーブティというより薬湯としてのイメージだ。また「蓬餅」は厄を払うものとされているのに、どくだみはそういう効用はないのだろう。花は可憐で綺麗なだけに名前がネックとなっているのかもしれない。

どくだみの十字に目覚め誕生日 西東三鬼

三鬼の誕生日は5月15日だったので、その時期の句かと思われる。ついでに西東三鬼を検索したら『冬の桃』のドラマの予告編があった。


どくだみや藪の十字星降誕し 宿仮

船長の行方

林桂『船長の行方』。

高柳重信は一行書きの俳句を多行書きにすることで見えてくる景があることを発見した。

どくだみや
くるいざき

みやまえりのうら  宿仮

高浜虚子

仁平勝『俳句が文学になるとき』「高浜虚子『五百句』──客観写生から花鳥諷詠」。正岡子規の俳句は、文学を諦めたところから、始めたとあったのだがしかし文学をあきらめたわけではなかった。それが俳句を研究しつくしたところで、過去の古典俳諧と訣別するために写生という概念を持ち出す。

「夕顔」についての考え方の違い。正岡子規はそこから『源氏物語』のような古典文学を排除して「写生」することだけを求めた(『新古今集』不定派だから俊成の歌論には反発したのかもしれない)。それに対して虚子は季題という古典文学の持つ力を否定せずに、そのイメージを借りることによって俳句の表現が拡がると考えていた。それは亜流の文学のままでいいということなのか、特に俳句を学問にするには反対だったのだ。

そこが根本的に志ある革新者である子規と二番煎じ(第二芸術論)でいいとする虚子の違いであるのか?

遠山に日の当たりたる枯野かな  虚子

この俳句は「枯野」という季語が持つ力(季題)によって、そこに日の光がスポットライトのように当たる映画のワンシーンのような誰もが持つ郷愁を感じさせる。ただの写実的な俳句とは違っているのだが、それが写生をさらに極めた「客観写生」となっていくとする。

それは虚子のスローガンの一つになった。さらに花鳥諷詠という季題がもう一つの重要な要素であり季語がなければ俳句にならないと考えていたのだ。それは都会を読むにしても季語を入れることで俳句になるのであって、都会美を排除するものではない。ただそこに日本古来の伝統文学としての季題を添えることによって俳句として自立するのだと考えたのか?

一つ根に離れて浮く葉や春の水  虚子

浮き草の葉が水面では繋がっているのは「春の水」という季題の力であり、その驚きと喜びを俳句としての水面に浮く葉として現れたのである。例えばただ写生をした俳句との違いを見ると明らかである。

甘草の芽のとびとびのひとならび  高野素十

この句がつまらない(と仁平勝はいうのだが)のはイデオロギーもなくただ描写したただごと俳句だからだという。それはちょっと違うのではないのか?とびとびの芽に対応する古典としてとびとびの露の歌があるのではないか?だから、この歌は夢に対する現実性というイデオロギー(自然讃歌)があるように思える。仁平勝が注目するのは「甘草」という季語が古典を孕んでいないからとする。甘草=忘れ草で検索すれば万葉集の歌が出てくるから古典を孕んでないということはないと思う。

忘れ草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため  大伴旅人

「写生の目的」として季語の「空想的趣味」を取り入れるということで子規の写生とは対立していくのだ。

晩涼に池の萍(うきくさ)皆動く  虚子

この句はさらにいいとするが、普通の人は「萍(うきくさ)」はルビがないと読めないので意味が掴めないと思う。それに「萍(うきくさ)」は夏の季語であり晩涼と季重なりになるではないか?このへんがよくわからない。つまり季語にこだわる必要はないと思うのだ。植物を詠めばたいてい季語に当たる。つまり植物が入ると季重なりになりやすいということだ。だったら特別に季題にこだわらなくてもいいのではないか。

どくだみや晩涼も咲く鬱々と 宿仮

もう一つ子規は虚子が人事を詠むことを好まなかったという。人よりも花鳥諷詠だったのだ。しかし虚子は花鳥諷詠よりも人を詠み込むのが好きだった。それは花鳥諷詠に自身の生活を詠み込むことで近代俳句の意義(個人趣味的なものか)を見出したという。それも子規の晩年はあったと思うがどうなんだろう?

蚊遣火や縁に腰かけ話し去る 虚子

この情景は現代ではあまり見られないが虚子のいた近代にはよく見られた生活句であるとする。それは戦時になっても庶民の暮らしは不変のものであるというのだが、そうとも言えないような気がする。だったらパレスチナの歴史性はどうなんだろうか?戦時にも俳人は庶民の俳句を自由に詠めたとは思えない。

決定的な虚子嫌いなのは、やはり女性に対する俳句なのだと思う。

酌婦来る灯取虫より汚きが  虚子

フェミニズムどうのこうのよりも、そういう差別蔑視が隠せないのが虚子なのだと思う。そういう手本とする俳句の未来はあるのだろうか?

金亀虫擲つ闇の深さかな 虚子

虚子の俳句の技がここにあるという。

虚子俳句擲つ闇の深さかな 宿仮

技術論としてよりも人として虚子が好きになれないのかもしれない。文学ってそういうことだとも思う。

芭蕉

虚子は嫌いだが子規を憎めないのは俳文という散文も書いているからだろうか?俳文といえば芭蕉『おくのほそ道』。もともとは韻文よりも散文が好きなのだ。ただ俳句を始めたからなんとなく韻文もいいのかなと思っている。

子規も芭蕉もそうだけど、散文の中に韻文としての俳句がある。その形が好きなのかもしれない。それだと俳句も散文の中で読まれることがあるからへんな解釈やらわかりにくいということはないと思う。その中で俳句(発句)が際立つ。

例えば数々の芭蕉の名句が『おくのほそ道』から生まれたのも散文の中で輝くからだと思う。

『芭蕉紀行文集』から「鹿島詣」。

蕉風が確立されたのは『のざらし紀行』だという。それは西行の足跡を辿っていく鍛錬の旅であった。旅から帰って、また元の体たらくな生活に戻ったので再び旅に出たのが「鹿島詣」。今回は在原行平の見た月を見に行く旅でもあったのだ(月はどこでも見られるが行平は須磨の浦で見た月を詠んでいる)。


松陰や月は三五や中納言 貞室

ただこの句は芭蕉の記憶違いで正しくは

松にすめ月も三五夜中納言 貞室

であるという。三五夜は十五夜の月。中納言は在原行平で、貞室の月の句は白楽天の「三五夜中新月ノ色 二千里外古人ノ心」によるもの(それと『源氏物語』にも須磨の月があった)。温故知新ということか?

そして芭蕉の『鹿島詣』から乗代雄介『旅する練習』が生まれた。そちらは現代風に中学入学前の少女と叔父さんのメヘンチックな話になっている。鹿島はアントラーズの本拠地であり、少女はサッカー少女でリフティングしながら旅をしようというのである。サッカーボールを月に見立てたのか?

実際には宿泊所の寺に到着した日はあいにくの雨で月は見られなかったのだ。それでも寺に一泊した折に月詠みの句会が開かれた。

月はやし梢は雨を持ちながら 桃青(芭蕉)
寺に寝てまこと顔なる月見哉 同

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