シン・現代詩レッスン119
蜂飼耳「詩の語り手について」
『現代詩手帖2024年1月号』特集「現代日本詩集」から蜂飼耳「詩の語り手について」。最近(でもないのか?)の現代詩で一番のお気に入りは蜂飼耳だった。まず名前が面白い。
ゼロ年代の詩人か。このへんは新しかった。最果タヒとかこのあとなんだろう。詩の形が詩に対する形というか問いかけだった。詩の語り手は大いに問題だ。たいてい一人称なのだが、そこだと短歌と同じだから、そこからの発展があると期待したい。
この蟹は象徴で、語り手の内面かもしれない。この部分は一人称を情景の中に消すのは俳句的であるのかもしれない。短歌だと蟹と戯れる啄木になるのだと思うが。
なんで蜂飼耳を語り手と言ってはいけないのか?それは共同体の中で直面する「私」の自我よりも自己ということなのだろうか?システム上の私は語らされている者なのかもしれなくて、むしろその語や行の間に潜む「語り手」を見つけることか。
ここは短歌(うた)や俳句(歩行=吟行)を意識しているのか?現代詩を始める前に俳句とか短歌をやってみるという詩人は以外に多い。またそこから小説を書き始めたりするのだが。蜂飼耳『紅水晶』という短編集があった。韻文から散文への魅力なのか?
〈語り手は誰か〉と問うこと自体が一人称の「私」ではないと言うことなのか?蜂飼耳という名前がシャーマン的で蟲師みたいだ。蜂から情報を聞く耳という。今読んでいる本で中動態という能動態とも受動態とも違う態があったという。それは自ら意志的に動くのではなく、動かされているのちに受動態となるのだが、もともとは能動態と違う概念の言葉で、たとえば人称よりもそれらの言葉が先にあったという。英語だとItで表されるそれらというもの。
もともと言葉は情報という人称のはっきりしないものだった。それは神が現れる前の自然というようなものだったと想像する。中動態が消えていくのはキリスト教の一神教が現れてことからスコラ哲学とかは教会の教えを中心とするものになっていく。それが中動態に変わって受動態(パッション)になっていく。パッションは受難・受苦と訳されたりもする。つまり受苦を受けてそれを意志的な信仰の力によって切り開いていくという欲望なのだ。中動態はそれに対して何もしないこと。あるがままの姿として受け入れるギリシャ(キリスト以前の)哲学なのだ。
雨粒のような言葉、それは自然界にあるアミニズムの声だろうか、そうした声を蜂の羽ばたきの音のように耳をすませているのかもしれない。