短歌の詠嘆の研究
『短歌研究 2024年 10 月号』
髙良真実「冗語と詠嘆性への回帰」/牛尾今日子「詠嘆しない」/相田奈緒「発声と呼吸、その再現可能性」/郡司和斗「短歌のなかの句読点」/大塚 凱「霞の道」/土岐友浩「心をめぐって」
詠嘆をめぐる座談会から。
髙良真実「冗語と詠嘆性への回帰」は「冗語」(諧謔性=アイロニー)が時代ともに詠嘆調に変化しているという。それは諧謔性が独りよがりの頭で作ったのにたして、詠嘆調は身体的なもので、そうした他者との隔たりを魔術的に再復活させたのが穂村弘だという。それは手紙魔まみという他者を取り入れながらまみの言葉を呪術的に取り入れて隔たりを詠嘆として詠む。
社会に出ていく男(出勤する男)とウサギに託した詠嘆性は隔たりとしてあるのだが、歌によって共通の場に呪術的に引き込む。それは諧謔性で男は詠んでいた過去から女性性としての他者が魔術的に登場してくる歌なのだ。穂村弘という男の歌人が隔たりのある女性性で詠むというのは一つの詠嘆となっているとみる。
ゼロ年代穂村弘を通過した短歌は、塚本邦雄のような諧謔性ではなく、彼等が拒否した詠嘆性に注目していく。それは女性短歌の台頭ということもあるのかもしれない。
この歌も男と女の隔たりがあるのだが、それを詠嘆によって「あたたかさ」に変えていく。多分男との距離は離れているのだが、そういう呪文を発することによって「あたたかさ」を現出させる。新たな呪術としての短歌なのである。そして、それは「」や句読点や一時空けによって醸し出されるのだが、リフレインさせるというのも現代的な詠嘆の手法かもしれない。
詠嘆表現は過去には制度的な文語として、「や」「けり」「かな」などの「助詞」や「助動詞」の疑似古文化が『万葉集』によって斎藤茂吉などのアララギ派によって制度的になされたのだが、現在の口語短歌として新しい試みとしての詠嘆表現が増えているという。
「よ」の使い方とリフレイン効果。しかしそれは「隔たり」を詠嘆として詠みながら砂利道を行くのだった。
疑問形の詠嘆表現で読み手との隔たりを問う。そしてその声が作中主体ではなく、天の声のように響いてくるという。
それは俳句や川柳でも新しい詠嘆表現が使われていたという。
短歌の作中主体(制度)とは別の声が聞こえてくるのだ。諧謔性から詠嘆表現が課題だな。ちなみに詠嘆表現の歌は初句切れが多いという。
吉川宏志「1970年代短歌史」33
女性歌人の時代。ただ繊細に見ていくとその時代に男性歌人がいなかったわけでも、女性歌人でもすぐに消えてしまった歌人もいるということで、後の影響力や存在感が重要だという。その中で吉川宏志が上げたのが栗木京子と阿木津英(他にもいるのだが、気になった歌人だけ)
栗木京子は「観覧車」の歌が有名。
ただこの短歌が出たときは大柄で荒いという批評だった。今では模範的な詠みっぷりなのだが。一日と一生の対句表現など繊細さが残るという。選考会で特に問題となった歌が、
「男の群れ居る場所」が当時の女性としては大胆な行動と思われて大柄となったのではないかという。また「群れ」という言い方が大胆だった。
反対に阿木津英はフェミニズム短歌を詠み批評も書くのだが表現方法は伝統的であり、そのことが評価されたという。
新人賞受賞の言葉で短歌は男の伝統であって、女性は時代に押さえられていると。それを踏まえて読むと「紫木蓮」の情景といい「前髪ふかれてあゆむ」という颯爽と都市を横切る女性がいる。さらにこの頃話題になったのが河野裕子の「母性」発言で女性は産む性だから優位であるという、今なら保守系の国会議員がいいそうなことを書いていた。その発言に対しての歌だという。
短歌時評=田村穂隆「新しい批評語」
「ニューアララギ」はなんとなくわかるような気がするが「プロダクトとしての短歌」は読んだだけではさっぱりわからん。こういう批評語はつかわないに限る。早く消えてくれと思う。あとプリキュアが若者の短歌でも話題となっているという。そんなもん無視。
作品季評(第132回・前半)=小池光(コーディネーター)/花山周子/島田幸典
俵 万智「白き父」/阿木津 英「日本の〈うた〉」/浦河奈々歌集『硝子のあひる』
吉川宏志「1970年代短歌史」で阿木津英は取り上げられたが俵万智は取り上げられなかった。やっぱ好き嫌いは別にして、無視できない存在だと思うのだが、どうしたわけだろう。
ここでも俵万智のファザコン性がでているのだと思うが浦河奈々歌集『硝子のあひる』も父の死を描いた短歌だった。二人の違いはなんだろう。
これはカサブランカを引き詰めた棺桶に収めた父の姿が印象的な次の歌だという。その次に
という神妙な歌が続く。一方浦河奈々の父の歌は
俵万智とは逆に死ぬときまでは神妙な歌だが葬儀が終わるとあっけらかんとしている様子が現代っ子だという。
そんな二人の間で「日本の〈うた〉」というタイトルで時事詠を伝統的な短歌の言葉で読む阿木津英だった。
福島原発の歌だというが単独の短歌ではわからない。
自然詠の情景歌が魅力というのだが、読み飛ばしてしまいそうな歌である。
坂井修一「擁腫」
以前から言っているのだが漢字が読めないとさっぱりなのだが、これは短歌を読むうちに「癌」だと理解できた。「 擁腫」という意味に荘子の諺があるようだ。
同じことをしていた。孤独な老人の話し相手としてのAI。利用している人は多いと思う。
坂井修一でさえこんなことを言っているのかと安心する。
入院していた当時の記憶が蘇る。若い看護婦におむつされたり浣腸されたり、なんの罰ゲームだと思ってしまう。
やっぱ老人になると環境問題に意識が行くものかと。
随分贅沢だな。わりと年齢的に共感するところがあるかもしれない。
平井 弘「憂さばらし」
かな書きでけっこうシビアな発言をする年寄歌人か?
出口なしの諦念という感じなんだろうか、どっちに転んでも最悪というような。
旧仮名遣いが味になっているのか。なんとなく惹かれてしまう。
暴力老人なのか?子泣きじじいなのか?
雪舟えま「家読みシガとクローンナガノー凍土二人行黒スープ付き(短歌版)」
「家飲み」と「家読み」をかけているのだろう。二人の登場人物はネット上のゲームキャラのようでもあり、その二人が遍路旅という物語で、それが料理として黒スープを召し上がれ的な内容。雪舟えまは最初に上げた穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』のモデルとなったまみであるから、穂村弘の影響を受けているかもしれない。ポップな物語が食事の具材と共に提供されるという感じか。
石井辰彦「五つの海の傳說」も物語短歌だが、こちらは神話的な難しい漢字にルビがあるような凝った作りの短歌で読み応えがある。