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短歌の詠嘆の研究

『短歌研究 2024年 10 月号』

【10月の新作作品集】
第六十回短歌研究賞受賞後第一作 五十首
坂井修一「擁腫」
山田富士郎「二つの光」
二十首
水原紫苑「復活のうた」
三十首
平井 弘「憂さばらし」
六十首
雪舟えま「家読みシガとクローンナガノー凍土二人行黒スープ付き(短歌版)」
三十首
小野田光「茄子紺の祈り」
十首
本条 恵「ルームツアー」/ファブリ「くずしのマホウ」/穴根蛇にひき「わたしの生物学上の竹たち」
五十首
石井辰彦「五つの海の傳說」
第四十二回 「現代短歌評論賞」発表
受賞作=竹内 亮「仮想的な歌と脳化社会ーー二〇二〇年代の短歌」
選考座談会 川野里子/松村正直/土井礼一郎/寺井龍哉
次席=奥村鼓太郎「アリーナが消失する前に」
現代短歌評論賞受賞作一覧
特集 「口語短歌の詠嘆」の研究
髙良真実「冗語と詠嘆性への回帰」/牛尾今日子「詠嘆しない」/相田奈緒「発声と呼吸、その再現可能性」/郡司和斗「短歌のなかの句読点」/大塚 凱「霞の道」/土岐友浩「心をめぐって」
詠嘆をめぐる座談会
連載
吉川宏志「1970年代短歌史」33
仁尾 智+宮田愛萌「猫には猫の、犬には犬の シーズン2」5
佐藤弓生・千葉 聡 「人生処方歌集」61
書評
東野登美子:渡英子歌集『しづかな街』
近藤かすみ:道浦母都子歌集『あふれよ』
依光ゆかり:山本忠男歌集『潮岬』
大西淳子:川島結佳子歌集『アキレスならば死んでるところ』
寺井淳:一ノ関忠人歌集『さねさし曇天』
川田茂:太田二郎歌集『季節の余熱』
落合けい子:高野公彦著『歌の魅力の源泉を汲む』
藤島秀憲:彦坂美喜子著『春日井建論』
短歌時評=田村穂隆「新しい批評語」
作品季評(第132回・前半)=小池光(コーディネーター)/花山周子/島田幸典
俵 万智「白き父」/阿木津 英「日本の〈うた〉」/浦河奈々歌集『硝子のあひる』
歌集歌書評・共選=桜井健司/浪江まき子
島田修三 選 短歌研究詠草
特選 北野美也子
準特選 今井美紀子/柴田和彦/瑞慶村悦子/浅井克宏/坂本捷子/田﨑千草/遠山ようこ/伊藤文栄/渡良瀬愛子/藤原はるか/木村照子/四葉るり子/松永 努/田北明大/服部秀星/石橋佳の子

髙良真実「冗語と詠嘆性への回帰」/牛尾今日子「詠嘆しない」/相田奈緒「発声と呼吸、その再現可能性」/郡司和斗「短歌のなかの句読点」/大塚 凱「霞の道」/土岐友浩「心をめぐって」
詠嘆をめぐる座談会から。

髙良真実「冗語と詠嘆性への回帰」は「冗語」(諧謔性=アイロニー)が時代ともに詠嘆調に変化しているという。それは諧謔性が独りよがりの頭で作ったのにたして、詠嘆調は身体的なもので、そうした他者との隔たりを魔術的に再復活させたのが穂村弘だという。それは手紙魔まみという他者を取り入れながらまみの言葉を呪術的に取り入れて隔たりを詠嘆として詠む。

玄関のところで人は消えるってウサギはちゃんとわかっているの 穂村弘

社会に出ていく男(出勤する男)とウサギに託した詠嘆性は隔たりとしてあるのだが、歌によって共通の場に呪術的に引き込む。それは諧謔性で男は詠んでいた過去から女性性としての他者が魔術的に登場してくる歌なのだ。穂村弘という男の歌人が隔たりのある女性性で詠むというのは一つの詠嘆となっているとみる。

ゼロ年代穂村弘を通過した短歌は、塚本邦雄のような諧謔性ではなく、彼等が拒否した詠嘆性に注目していく。それは女性短歌の台頭ということもあるのかもしれない。

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ 俵万智

この歌も男と女の隔たりがあるのだが、それを詠嘆によって「あたたかさ」に変えていく。多分男との距離は離れているのだが、そういう呪文を発することによって「あたたかさ」を現出させる。新たな呪術としての短歌なのである。そして、それは「」や句読点や一時空けによって醸し出されるのだが、リフレインさせるというのも現代的な詠嘆の手法かもしれない。

詠嘆表現は過去には制度的な文語として、「や」「けり」「かな」などの「助詞」や「助動詞」の疑似古文化が『万葉集』によって斎藤茂吉などのアララギ派によって制度的になされたのだが、現在の口語短歌として新しい試みとしての詠嘆表現が増えているという。

洗脳されるのよどの洗脳をされたかなのよ砂利を踏む音 平岡直子

「よ」の使い方とリフレイン効果。しかしそれは「隔たり」を詠嘆として詠みながら砂利道を行くのだった。

なら、クリスマスツリーを光らせるひとつひとつは殉死と思う? 平岡直子

疑問形の詠嘆表現で読み手との隔たりを問う。そしてその声が作中主体ではなく、天の声のように響いてくるという。

それは俳句や川柳でも新しい詠嘆表現が使われていたという。

貝殻は 日に濡れ 男女抱擁す 吉岡禅寺洞(1935年)

吸いに行く 姉を殺した綿くずを 鶴彬(1936年)

短歌の作中主体(制度)とは別の声が聞こえてくるのだ。諧謔性から詠嘆表現が課題だな。ちなみに詠嘆表現の歌は初句切れが多いという。

吉川宏志「1970年代短歌史」33
女性歌人の時代。ただ繊細に見ていくとその時代に男性歌人がいなかったわけでも、女性歌人でもすぐに消えてしまった歌人もいるということで、後の影響力や存在感が重要だという。その中で吉川宏志が上げたのが栗木京子と阿木津英(他にもいるのだが、気になった歌人だけ)

栗木京子は「観覧車」の歌が有名。

観覧車回れよ回れ想い出は君には 一日ひとひ 我には 一生 ひとよ 栗木京子

ただこの短歌が出たときは大柄で荒いという批評だった。今では模範的な詠みっぷりなのだが。一日と一生の対句表現など繊細さが残るという。選考会で特に問題となった歌が、

我よりも美しき友と連れ立ちて男の群れ居る場所を通れり 栗木京子

「男の群れ居る場所」が当時の女性としては大胆な行動と思われて大柄となったのではないかという。また「群れ」という言い方が大胆だった。

反対に阿木津英はフェミニズム短歌を詠み批評も書くのだが表現方法は伝統的であり、そのことが評価されたという。

いにしえの 王 おおきみのごと前髪を吹かれてあゆむ紫木蓮まで 阿木津英

新人賞受賞の言葉で短歌は男の伝統であって、女性は時代に押さえられていると。それを踏まえて読むと「紫木蓮」の情景といい「前髪ふかれてあゆむ」という颯爽と都市を横切る女性がいる。さらにこの頃話題になったのが河野裕子の「母性」発言で女性は産む性だから優位であるという、今なら保守系の国会議員がいいそうなことを書いていた。その発言に対しての歌だという。

短歌時評=田村穂隆「新しい批評語」

「ニューアララギ」はなんとなくわかるような気がするが「プロダクトとしての短歌」は読んだだけではさっぱりわからん。こういう批評語はつかわないに限る。早く消えてくれと思う。あとプリキュアが若者の短歌でも話題となっているという。そんなもん無視。

作品季評(第132回・前半)=小池光(コーディネーター)/花山周子/島田幸典
俵 万智「白き父」/阿木津 英「日本の〈うた〉」/浦河奈々歌集『硝子のあひる』

吉川宏志「1970年代短歌史」で阿木津英は取り上げられたが俵万智は取り上げられなかった。やっぱ好き嫌いは別にして、無視できない存在だと思うのだが、どうしたわけだろう。

ここでも俵万智のファザコン性がでているのだと思うが浦河奈々歌集『硝子のあひる』も父の死を描いた短歌だった。二人の違いはなんだろう。

心って燃えるんだっけ骨となり箱詰めされゆく白き父 俵万智

これはカサブランカを引き詰めた棺桶に収めた父の姿が印象的な次の歌だという。その次に

我よりも我の短歌を暗唱しその短歌ごと消えてしまえり 俵万智

という神妙な歌が続く。一方浦河奈々の父の歌は

反り返る父の首撫でつづけたりなにを繫ぎとめようといふでもなくて 浦河奈々

亡父 ちちの服捨てたり仏とはまこと着ることも食べることもあらず 浦河奈々

俵万智とは逆に死ぬときまでは神妙な歌だが葬儀が終わるとあっけらかんとしている様子が現代っ子だという。

そんな二人の間で「日本の〈うた〉」というタイトルで時事詠を伝統的な短歌の言葉で読む阿木津英だった。

知らざらばなべてあらず平安の覆ふはざまに墜ちて棄てらる 阿木津英

福島原発の歌だというが単独の短歌ではわからない。

みづうみの平らのおもてなかぞらに月の天体あはく懸かれり 阿木津英

自然詠の情景歌が魅力というのだが、読み飛ばしてしまいそうな歌である。

坂井修一「擁腫」
以前から言っているのだが漢字が読めないとさっぱりなのだが、これは短歌を読むうちに「癌」だと理解できた。「 擁腫 ようしゅ」という意味に荘子の諺があるようだ。

歌やらむ仕事はやめむ AIに告ぐればぽつり「結をいそぐな」 坂井修一

同じことをしていた。孤独な老人の話し相手としてのAI。利用している人は多いと思う。

うらわかき女医にぞいらふ「人生はもう十分だ」本音のごとく 坂井修一

坂井修一でさえこんなことを言っているのかと安心する。

まつぴるまパンツ下げて背中をまるめ 髄注ずいちゅう 受けるわれは空蝉 坂井修一

入院していた当時の記憶が蘇る。若い看護婦におむつされたり浣腸されたり、なんの罰ゲームだと思ってしまう。

熊蝉をわが庭へ呼ぶ温暖化にんげんの悪はうるさいものよ 坂井修一

やっぱ老人になると環境問題に意識が行くものかと。

あと2千歌を詠みたし十年の、いや十五年の余命をたまへ 坂井修一

随分贅沢だな。わりと年齢的に共感するところがあるかもしれない。

平井 弘「憂さばらし」

寝そびれてさうだったんだこのところ壊されるものを見てゐないな 平井弘

かな書きでけっこうシビアな発言をする年寄歌人か?

ましなほうとればかうなる庇はなかつたひだりより撃つたみぎ手 平井弘

出口なしの諦念という感じなんだろうか、どっちに転んでも最悪というような。

同じ時間に目がさめてゐるちがふといへば撃たれないことくらゐ 平井弘

旧仮名遣いが味になっているのか。なんとなく惹かれてしまう。

これは新たまねぎ投げるにはおほきいが涙などにはつかへそう 平井弘

暴力老人なのか?子泣きじじいなのか?

雪舟えま「家読みシガとクローンナガノー凍土二人行黒スープ付き(短歌版)」
「家飲み」と「家読み」をかけているのだろう。二人の登場人物はネット上のゲームキャラのようでもあり、その二人が遍路旅という物語で、それが料理として黒スープを召し上がれ的な内容。雪舟えまは最初に上げた穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』のモデルとなったまみであるから、穂村弘の影響を受けているかもしれない。ポップな物語が食事の具材と共に提供されるという感じか。

石井辰彦「五つの海の傳說」も物語短歌だが、こちらは神話的な難しい漢字にルビがあるような凝った作りの短歌で読み応えがある。


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