シン・俳句レッスン177
現代俳句
「バナナ考」
『現代俳句2005年1月号』より西池冬扇『「アブラカタブラ・バナナ」、そして「花鳥諷詠」少々』が興味を引いた。バナナの俳句は、堀田季何『星貌』で興味を引いた。
この句は虚子の句。
虚子の句を意識して作られたのならその落ちたバナナは新興俳句だろうと勝手に深読みをしたのだ。そのバナナの皮に滑ったのが私である。虚子の句を評価したのは平畑静塔だという。最初は「全人間像」をかけた句という。新興俳句を蹴落とそうとしたのか?次に「無心のバナナ」という。こっちはわかりやすい。詩の非日常の世界に誘うのだ。驚いたのは熱帯地方のバナナに季語があるということだった。夏の季語なのは、その頃に収穫されるのと腐るのが早くなるとか。もっとも虚子のあとに季語に組み入れられたようだが。今日ではバナナは一年中あって無季のように感じるがそういうことなのである。だからバナナは有季定型として詠まれるのか?
これは虚子のバナナをコレラに喩えているのか?花鳥諷詠ということなのだ。有季定型よりも花鳥諷詠という。
花鳥諷詠は当たり前の「無心」を詠んで(それは写生か?)前衛俳句より進んでいるという。どっちでもいいが、虚子は本当に無心だったのだろうか?無意識の問題なのか?
新現代俳句時評「別れた訳、分かれている理由」日野百草
現代俳句協会、俳人協会、日本伝統俳句協会の三協会統合論について。それが高齢化ゆえの衰退であるならば統合しても同じだと思うが。なんか俳壇には新しさを拒絶するイメージがあるのだ。ただそういう危機感を持っている人がいるということは変化のチャンスかもしれない。
「俳句のユネスコ登録の現状と現代俳句協会の立場」後藤章
これは面白い記事だった。ユネスコ登録とは、世界遺産みたいなものか?完全に過去の遺物である。ただ世界的に俳句が詠まれているのは事実である。それはHAIKUという別物なのかもしれない。有季定型は通用しない世界だった。花鳥諷詠はあるかもしれない。日本の有季定型を信条としている人はどう思っているのだろうか?
NHK俳句
十年やって一人前というのは、頭ではなく身体で覚えろということだった。それは自然、日本の伝統に縛られることで、実際にはそういう世界の保守的な伝統芸能は危機的状況にあるのではないか。だから親子で代々受け継がれて保守化していく。政治の世界と一緒だと思う。いつまでも日本チャチャチャでいられると思っている世界。その世界はどんどん変わっていく。アメリカはいつまでも友好国だと思うなよということだ。まあ、これは保守を喜ばせそうだけど、トランプ以後世界はどう変化していくのか?考えなければならない時代なのだろう。
ただ言えることは敗戦は日本の精神が招いたことだった。そのことを忘れないようにしたい。
初鏡は鏡餅を割る日だと勘違いしていた。正月で初めて鏡を見る日だという。初化粧とも云うということだった。
阿修羅は四面鏡を使うのか?そうだ、
哀しみは鏡がないとか。
俳句 2024年10月号
『俳句 2024年10月号』から興味深い記事。
高山れおな「vs芭蕉一音名詞句合十番」
特集「大解剖! 魔法の一音」から高山れおな「vs芭蕉一音名詞句合十番」。名詞の一音句から芭蕉と現代俳人の勝負(ゲーム)なのだが、歌合と同じスタイルでやってみる。
岡井省二の「艪」は「ろ」とも読むがここでは「かい」の方がいいのではと思う。中七できっちり収まるのだ。よって芭蕉の反則勝ち。でも芭蕉のほうも「かい」ではないのか?となると地(引き分け)か。
それにしても芭蕉の句は字あまり過ぎるな。「櫓の声波を/打つて 腸氷るや/夜の涙」ということでやっぱ「ろ」と読むみたいだ。「声波」「せいぼ」ということで音波だという。「櫓の声波を打つて」で一区切りかな。その方がすっきりするか?なかなか曲者の句だったが芭蕉の勝ちか。
芭蕉の句は手伝いに来た弟子に雪だるま(団子)を見せる芭蕉の無邪気さと大人の男の対比か。芭蕉のほうが可愛い感じで芭蕉の勝ちか。原田芳雄は映画の世界だから。
芭蕉は何気ない木でも俳句に詠んでしまう見事さか。伊勢神宮での一句だという。左(下)は理屈っぽいから芭蕉の勝ち。
時鳥の句は、杉田久女の句「谺して山ほととぎすほしいまま」を思い出す。芭蕉を意識していたのか。芭蕉が俳諧師に成り代わるという句だという。そのぐらい意気込みのある句だった。左はウクライナ侵攻の社会詠だという。黒豆を煮ているという句。意気込みが違うんで芭蕉の勝ち。
魚の涙は水に消え、柚子の目は匂いということか?芭蕉の方が馴染んでいるで芭蕉の勝ち。ちょっと贔屓すぎるか?右の句は恋の句だという。柚子の花より君の目ということだった。柚子は君への当てつけか?
馬と父の闘いか?「ほととぎす」は何かを象徴をする鳥なんだろうな。「ひとり」というのは母だろうか?右の句は父が化粧をするという解釈だ。それはないのでは。野良仕事から帰ってくるのだから、待っている人が化粧をするのだと思うが。「ほととぎす」は芭蕉の「ほととぎす」愛だという。愛がある方が勝つんだけど下はわかりにくいか?
芭蕉の句は神社祈願のあとの温泉で身体を清めているのか。そういうのがなしに花見のあとの湯の句だな。月野ぽぽなは俳号が印象的なので勝ちにしたいが、ここは地で。
この芭蕉は平凡だな。そこがいいのか?逆に澤の句は太陽に月だった。「残んの日」は残り少ない命という意味だろう?「残の月」という大道寺将司の句集の題にもなっていた。よって左(下)の勝ち。
哀れさは三橋の句のほうだと思うから素直に三橋の勝ちか。海苔の砂は今はないものな。江戸時代はそういう海苔が多かったのだろうか?
高橋睦郎の俳句は難解漢字が苦手なのでパス。よって芭蕉の勝ち。菊の酢和えが美味しそう。
俳句の中の虫
「俳句」の連載では俳人が書くものより、学者の奥本大三郎のコラムが面白かった。ががんぼの哀れさみたいなものがある一方で、イギリス人の昆虫学者が付けた学名が「ミカド」とかいうのだと。日本産の優雅で大きいガガンボが、イギリスの昆虫学者を喜ばせたというのは、当時鎖国状態で日本いる昆虫は未知なる生物だったのだ。その当時作られた『ミカド』というオペレッタから付けられたとか。
「批評の考」板倉ケンタ
俳句でも短歌でも批評がないと言われる。それは「批評」の指針がないからではないからだろうか?結社によってその指針はあるのだと思う。有季定型を守るとか。しかし、それを外で大っぴらげに口に出来ない雰囲気があるのかもしれない。例えば俳句雑誌に掲載されている俳句の膨大さ。そのいちいちに意見を言えるわけでもなく、好き嫌いの気分で判断するのではないか?そこに批評なんて面倒臭いことは必要ないのかもしれない。
ここに掲載される「合評鼎談」でも批評的なのは横澤放川だけで他の二人はただ褒めるだけだという。それは大抵の句がベテランの句なれば年下としては意見も出にくいのだろう。うっかり批評でもすればベテラン勢に叩かれるかもしれない。だからあたりさわりのないところで誉めて頑張っているところを見せるしかないのだろう。
思うに批評というより評価の基準がないのである。つまりここに自分の俳句を宣言すればいいのだ。
とりあえず3つぐらい。
まず第一に今日の変化を詠むこと。それは日常俳句ではあるのだが変化にポイント置き変化するものを詠むことだ。
第二に物語性の復活。これは思想性に通じると思う。創造ということだ。
第三に蕉風であること。やっぱ芭蕉の精神は重要だ(芭蕉が改革者であったということ)。芭蕉が志した俳句、「ニ物衝動」「不易流行」「聖と俗」は重要だ。そこに諧謔性と無心ということだろうか?とりあえずこんなところか?