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6時間はけっして長くないドキュメンタリーの学びの映画

『水俣曼荼羅』(日本/2020)監督原一男

3部構成・6時間12分で物語る⽔俣病についてのドキュメンタリー映画。【第1部 病像論を糾す】:川上裁判によって初めて、国が患者認定制度の基準としてきた「末梢神経説」が否定され、「脳の中枢神経説」が新たに採用された。しかし、それを実証した熊大医学部浴野教授は孤立無援の立場に追いやられ、国も県も判決を無視、依然として患者切り捨ての方針は変わらなかった。 【第2部 時の堆積】:小児性水俣病患者・生駒さん夫婦の差別を乗り越えて歩んできた道程、胎児性水俣病患者さんとその家族の長年にわたる葛藤、90歳になってもなお権力との新たな裁判闘争に賭ける川上さんの、最後の闘いの顛末。 【第3部 悶え神】:胎児性水俣病患者・坂本しのぶさんの人恋しさと叶わぬ切なさを伝えるセンチメンタル・ジャーニー、患者運動の最前線に立ちながらも生活者としての保身に揺れる生駒さん、長年の闘いの末に最高裁勝利を勝ち取った溝口さんの信じる庶民の力、そして水俣にとって許すとは? 翻る旗に刻まれた怨の行方は? 水俣の魂の再生を希求する石牟礼道子さんの“悶え神”とは?

最初に科学的事実を明らかにすることで映画とは違うドキュメンタリーになったと思う。第二部では患者にスポットを当てた日常に生活する姿を追いながら水俣公害訴訟も見せていく。長い裁判の中で被害者も年老いていくのである部分で妥協しようとする住民の分裂をも描く。権力側の分断のノウハウは、後の東電の原発事故訴訟や沖縄基地問題にも生かされていると感じた。

日本で最初の公害訴訟としての水俣が今なお解決出来ないで訴訟が続けてられているのだ。すでに被害者も鬼籍に入ろうとしている。行政のこうした間違いを間違いと認めない権力政治は次第に国民に浸透してきている。嫌気がさしてくる。国よって分断されてしまった地域では、水俣の話題さえタブーになているという。沖縄や福島と同じ問題の難しさがある。

ジョニー・デップの『MINAMATA』と違うのは、水俣病が御用学者によって「末梢神経」の病気(公害病)とされたのを「脳の中枢神経説」を説いた熊大医学部浴野教授によって、それまで8割が認定出来なかった水俣病患者を救済すべき訴訟が現在も行われているドキュメンタリーであること。過去の公害訴訟ではないのだ。

例えば認定のランク付けによって被害者区分けする(これは介護システムと一緒だ)。誰が見ても重度の患者は、水俣病と認定するが、脳神経がやられてくる進行性の病気であるということ。視野狭窄や手足の麻痺は時間と共にやってくるということだ。その病気の中で毎日を生活しなければならずまともな仕事に付けないのである。手足を自由に動かすことが出来ないのだから、一般職には付けない。そういう住民を放置していたのだ。初期の水俣病認定の誤った基準でもって。

そして住民買収による分断工作(220万で訴訟はしないと約束さえる。高齢者家族を抱える人たちは受け入れざる得ない。団体交渉しているから個人は救済されない)。そして、御用医師たちは現在でもいるのだ。政府よりの見解を出すことで生き長らえている教授やかつての権威を否定出来ない体質。そうしたことすべてが日本の現在の閉塞感に繋がっているのだ。

しかし映画は水俣病患者の日常を映すことで、誰もが持つ感情、恋をしたり結婚して子供を生んだりする生活を映す。それらは日常の中で生きていることで訴訟はそういうことを政治に奪われてしまうのも事実だ。支援者の会やいつまでも訴訟生活を続けなければならない金銭的問題。一番が高齢化問題。国を相手に訴訟することがこれほどのこととは思わなかったという高齢者被害者の感想は、もっともだと思う。

フレデリック・ワイズマンの長編ドキュメンタリー映画『ボストン市庁舎』でも感じたのだが裁判後の行政と住民対話が白熱して面白かった。熊本知事の悪代官ぶりは、『MINAMATA』で國村隼演じるチッソの社長より強かだった。また謝罪の面々は謝りなれているのか?よく神経が持つなと感心してしまう。一番の新米がそういう嫌な役をやらされ、前任者を引き継いでいくのが優秀とされる官僚システム。

裁判で負けた時だけ謝っていてまた訴訟するのだ。最高裁までの終わりのない闘い。最高裁で国と県の過ちが認めれても認定は個人個人なので認定しないということが起きている。そして、また訴訟が繰り返される。

原告の秘書の女性のヒロインぶりとか訴訟裁判でのキャラ立ちも面白かった。一般人が登場人物として輝き始める瞬間みたいなもの。

観音様のような石牟礼道子氏はなくなる直前だった。彼女も「寛容」ということを言わねばならなかった。それでも「悶え神」とか言っていた。行き場のない負の感情をどこに持っていけばいいのか。「怒」から「寛容」するまでの遠い道のり。国も県も公害認定を却下するのではいつまでも終わらない闘争。水俣は公害訴訟の始まりなのだ。

NHKのヤラセ問題も水俣病闘争の頃は、まだ住民側にいたのだなと裏側をも明らかにする。一口株主運動から巡礼姿で「ご詠歌」運動はドキュメンタリー監督である土本典昭の演出だったのだ。ジョニー・デップの映画で土本典昭をモデルとして演じたのは真田広之だった。そういうドキュメンタリー映画を考えるのにも面白いドキュメンタリーだった。よく客観描写など言われるがカメラも一つの視点ならば主観的に成らざる得ない。そういうメタ・ドキュメンタリーなのだ。


水俣病が末端神経障害ではなく、脳の中枢神経を蝕んでいくとするならば、今現在の政治状況と同じことで、末端の尻尾を切るだけでシステムとしての司令をする脳がいかれている。これは会社人間にはよくわかることで、優秀だとされるのは謝罪が問題なく出来て、前任者の仕事を継続するもの、そうしてシステムの中枢神経は生き残る。脳が蝕まれた状態で。現在の政治状況のシステム論の話なのだ。

専門医の人が日本の学会では爪弾きにされて、理論を英語で発表しようとする。日本の内部では問題解決出来ない。アメリカも訴訟社会だと思うが、少なくともそのノウハウはあるのかもしれない。

謝罪会見で実質室長というぺいぺいらしき官僚がいた。かれがそこでの責任者なのだが、その脇にいる奴から「謝るな」というメモが渡って謝罪会見上で騒動になった。そういうお目見つけ役がいるのかなと思った。謝罪会見というシステムを見ているとまさにそれが日本社会の縮図なのだ。

それは反対勢力にも言えることで共同体を守ろうとする力が全員一致という暗黙のルールが出来ている。御用組合の存在理由はそんなところだ。そして組合幹部は、システムとして社会の中心に引き上げられる。システムとの闘いの虚しさ。個人が犠牲になる生活。被害者が高齢化になるにつれて訴訟生活より普段の当たり前な平和な生活を望む。だから認定されなくても天皇と皇后との話し合いに応じたことは、その拠り所となったのかもしれない。それが政治的と受け止められてしまう。石牟礼道子さんの言葉にしても最終的には個人なのだと思った。それは諦念か?

「曼荼羅」の意味を考えたい。無意識領域にある救いの概念なのか?最終的には自然の中に収まっていく人間の姿というものがあると思うのだがその自然破壊も人間の災いの一つなのだ。ヘドロの海を再生させようとするプロジェクトのいい加減さ。そこでの検査もお役所仕事だ。漁民は魚が取れることで生活が成り立つので一時保証金でも貰いたいのだ。

話を戻して、そうした訴訟での力ある発言をするのは、当事者より介護(ケアー)をする女性なのだと思った。虐げられていく構図がそこに見え隠れする。

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