シン・短歌レッス106
西行
今回は西行の月の歌を中心に。
『新古今・釈教歌』。釈教歌は仏教に帰依した心境(良かったこと)を詠ったものだが、西行は出家したので当然多いのかと思う。
しかし、歌を捨てられなかった西行であり山籠りするよりは里との境界でスタイルとして草庵生活にあこがれていたということのようだ。それは山辺という寂寥感のなかで月を眺める心持ちだった。「空なる心」はそんな西行が出家したいと思うこの世の空虚感だったのかもしれない。
桜の西行と言われるがそれと同時に月の歌も多いのだった。桜は美への憧れだが、月は仏教の憧れ、世俗からの解脱という(それも欲かもしれない)ものだった。今回は、そんな月の歌を見て西行の心持ちを知りたいと思う。
桜の歌で有名だが同時に月も歌われていた。むしろ後半の月の方が重要ではないかと思うのだ。「如月の望月」は釈迦の入滅日だった。それは極楽浄土への道なのである。見せかけの花の世も去って、極楽浄土への月が導く道を願っていたのだ。しかし、一日遅れてしまった。そこが西行の俗なところなのかもしれない(花に未練があったのか?)。
「播磨潟」は淡路島と小豆島に挟まれた瀬戸内海に面した場所であり、空海のお遍路や後の山頭火や放哉を連想させる。歌枕としての機運もこの頃高まったという。『山家集』では「月の歌あまたよみけるに」と四十二首も続けて詠んでいた。続けては編集したからなんだろうけど、一度に四十二首も詠んでいたらすごいな。西行ならやりかねないのか?
月を隠す雲は邪魔ものなのだが、隠す雲があるからこそ趣があるというのもある。月は西行に取って憧れの涅槃のような世界だったのか?だからたまには邪念が隠したりするのかも。
逆のことも詠んでいたりする。先の「なかなかに」が「かえって~だ」のような逆説を含む言い方であるという。「もてなす」は月を擬人化した言い方。
「菊の白露」を引き立たせている月光。
粗末な庵と露の玉が月に照らされて輝く様子が対称的に歌われている。「もてなす」というように西行の歌では月や露といった自然の景観が擬人法的に用いられている。
吉田兼好が花は盛に、月は隈なきをのみみるものかは」というように、月が遮られても尚も美しくみせるという状況をも詠う。これはのちの芭蕉にも引き継がれていく。
この句の詞書に「西行の歌の心をふまえて」とあるという。また芭蕉も「もてなす」という擬人法を使った句もある。
芭蕉は西行の歌における雅さを学んで自然(四季)を友としたのである。芭蕉は『奥の細道』を始めとする紀行文で、西行の歌を取り入れるだけではなく精神性をも近づけようとした。
月食(月蝕)を詠んだ歌だとか。月蝕は古代・中世では忌み嫌われるものとしておそれられていたが、西行はそれでも眺めていたので噂がたつだろうという歌。月光に当たらないようにとか、月蝕の月光が何か悪い影響を与えるものだったのか?月が欠ことは老いや死を意味していたからだという。そもそも月を見る事自体忌むことなんだそうだ。それで風狂な歌人?
屋根に穴があいてもそこから月が射してくるとか、そうとうな月狂いな人。
和歌では珍しい三日月の歌。三日月は俳句で詠み込んでいた。
西行が仏道修行者として月に向かい合った歌だという。「いかで我」は内省の言葉。他にもいくつかの歌があった。
西行は身と心を歌ったものが多いが、仏教の本身と本心を言ったもの。そこに心ではとうてい磨ききれない邪心(歌心)が起きてしまうことを素直に歌っている。それは救済されない西行の心の姿なのだ。
この歌は『百人一首』にも取られているという。記憶になかった。てっきり桜の歌だと思っていた。
『流れよ、わが涙、と警官は言った』を思い出すな。警官を歌人や西行に変えればSFが出来る(題名だけ)。「涙のパヴァーヌ」だな。
短歌定型との戦い―塚本邦雄を継承できるか?
小林幹也『短歌定型との戦い―塚本邦雄を継承できるか?』から。塚本邦雄がシュルレアリスムを意識したのはロートレアモンの『マルドロールの歌』だという。その中の有名な宣言。
塚本邦雄はそれを戦時の混乱の中で読んだ。爆破された状況だったのは第二次世界大戦によって破壊され尽くされた状況そのものだったのだ。ロートレアモンも「マルドロールの歌」の葬送の行進の中に破壊されたものを見出していた。
それは『緑色研究』の「雉」と「ピカソ」の出逢いだった。
その先行例として斎藤茂吉の歌がある。
塚本邦雄は茂吉の実相観入から超現実主義的なものを見出していた。それが茂吉の写生だったのだ。二物を出会わせることによって生じるシュルレアリスムの手法。塚本は茂吉の写生を否定しない。むしろそれは、彼の指標となっていくのだ。それは内面を超現実とする厳しい自然現象なのである。
西脇順三郎は芭蕉の自然詠のなかにさえシュルレアリスムの超現実的な様相を見出している。要するに写生を徹底的に突き詰めた姿が超現実主義的な様相としてわれわれの前に現れてくるのだ。
塚本邦雄は幻想・幻視・想像力を駆使した作家と見出されてきた。しかしアララギ派の斎藤茂吉の写生をもっとも理解していたのも塚本邦雄なのである。
『緑色研究』という歌集のタイトルはコナン・ドイル『緋色の研究』から来ているという。
それは葛原妙子を批評した『百珠百華―葛原妙子の宇宙』でも取り上げられいた。
この『緋の研究』はコナン・ドイルの『緋色の研究』であり、塚本は粗筋を紹介している。それによると殺人事件があり、血の文字で緋色(スカーレット)でレイチェルの文字があった。これを見て刑事はレイチェルが犯人だとするのだが、レイチェルはドイツ語で「復讐」を意味するとホームズは推理した。そして、それはドイツ人が書いたものではないと補足する。「緋色の研究」とはホームズの殺人事件そのものを表しているのだが、塚本邦雄はそのホームズの手法を否定していくのだった。それはホームズは日常生活から犯人を推理していくのだが、塚本はその批評を否定して、作家論ではなく作品論で解釈していくのだ。それはシュルレアリスムの詩では日常性は意味をなさずに深層的な自我を自然に委ねたところから始まる。つまり超現実とは徐々に我を消していくことの痕跡なのだとする。それにより塚本は葛原妙子の短歌に共鳴していくのであり塚本邦雄の短歌も我を排除していく方向へと進んでいくのだった。
NHK短歌
岡野大輔さんの時はあまりおもしろくなかった。なんか内輪的な話題が多いような気がする。
うたの日
9時は間に合わないので11時の「ノートルダム」にする。これはやりやすいかもしれない。
『百人一首』
これでいいかな。ノートルダムの鐘を見ておいたほうがいいな。
♡一つに♪4つか。過去最高!かと思ったらそうでもなかった。♡がつくと嬉しくなってしまう。レベルが低すぎのか?
映画短歌
『PERFECT DAYS』
『百人一首』
これで良し。