シン・短歌レッスン163
松下竜一『豆腐屋の四季』
松下竜一『豆腐屋の四季』から。
これは俳文という形式なのか?俳句ではないから歌物語の部類だろうな。フィクションではなくノンフィクションの日記形式(短歌付き)の随筆だろうか?家を出ている弟たちや姉に向けて「ふるさと通信」なる家族新聞を定期的に発行したりして、家族愛が伺われる。実際に地方新聞にもエッセイを載せたりしていたようだから、半分作家みたいなものだったのだったろうか?
歌人というと暦には敏感になるらしく、新年から抱負を語ったりしている。このあと商売と神頼みという感じの歌が続くが、妻も迎えて(兄弟もそれぞれ妻を迎えていた)この時代はまだ核家族化してないような。しかし、それも時代と共に古いものが新しいものになっていく時代なのだった。そんな時代に生きた自負もあったのだろうか?
ボイラーは近代化のガス点火装置なのである。それまでは竈の「くど」を使っていたのだ。
こっちの歌の方がいいな。形式ばっていない自然との共存が見られる。
代々三代の豆腐屋だったので古い仕来りは大切にするのだろう。
ただ短歌として面白いのは日常生活の情景か。
まだ馬車が走っていた時代なのだが、すでに自動車社会であり馬車は深夜に墓石とか運ぶためのものだったとか。幻想的な短歌だ。
新妻を迎え彼女が犬が欲しいとねだったので、犬を飼うが、どうもバカ犬だったらしく、ほうれん草畑を荒らして、やがてそこの主人から報復を受ける形で死んでしまったようだ。
出来た豆腐を深夜に配達に行くのに犬をお供させたという。この歌が入選した日には犬は死体となっていたという。
新妻は成人式前で、結婚してからの成人式だったのだが、内気で友達もいなかったらしく、成人式の日も豆腐屋で働かせてしまったという。
妻のために朝に雪山を築くのだが、その日も働かせてしまったのを後悔する。そんな妻は子どもが生まれても豆腐屋だけは継がせたくないと言ったとか。それも地方新聞の記事にしていた。
坂口弘
『坂口弘歌稿』から。
「リンチ」の歌がけっこうある。「リンチ」という言葉がなくても壮絶な歌が多い。
口語体が生々しさを伝える。定型にならない感情。
赤軍派のリーダーだった森恒夫の自殺。
NHK短歌
ゲストが川上未映子だった。女王様的な存在感だったな。投稿選句にもあまり反応がなかった。そこら辺は毅然として自分の好みを主張するタイプのように思える。尾崎世界観なんか子ども扱いのような。まあ、作家として大先輩で格が違うという感じか。
この歌がお気にりだったようで、社会的枠ないから逃れたい自分と逃れられない自分で葛藤しているようだとか。そういうのはこの歳になるとよくわからないというか踏み外すと一気に怪我をするから、けっこう階段には慎重になっている。駅とかも手すりにすぐに捕まえるような位置で用意している。手すりに捕まって上るということはないんだが、けっこう廻りの殺意みたいなものを感じ始めている。さっさと行けよみたいな。この歌は若い人の歌だな。この歳になると絶対に踏み外したくはない(経験者は語る)。
大森静佳の『夏物語』の感想。情景描写がしっかりしていると。もう読んだことも忘れているな。読んだという記憶はあるんだが。
「口語短歌の詠嘆」の研究
『現代短歌 2024年10月号』から
髙良真実「冗語と詠嘆性への回帰」/牛尾今日子「詠嘆しない」/相田奈緒「発声と呼吸、その再現可能性」/郡司和斗「短歌のなかの句読点」/大塚 凱「霞の道」/土岐友浩「心をめぐって」
詠嘆をめぐる座談会から。
髙良真実「冗語と詠嘆性への回帰」は「冗語」(諧謔性=アイロニー)が時代ともに詠嘆調に変化しているという。それは諧謔性が独りよがりの頭で作ったのにたして、詠嘆調は身体的なもので、そうした他者との隔たりを魔術的に再復活させたのが穂村弘だという。それは手紙魔まみという他者を取り入れながらまみの言葉を呪術的に取り入れて隔たりを詠嘆として詠む。
社会に出ていく男(出勤する男)とウサギに託した詠嘆性は隔たりとしてあるのだが、歌によって共通の場に呪術的に引き込む。それは諧謔性で男は詠んでいた過去から女性性としての他者が魔術的に登場してくる歌なのだ。穂村弘という男の歌人が隔たりのある女性性で詠むというのは一つの詠嘆となっているとみる。
ゼロ年代穂村弘を通過した短歌は、塚本邦雄のような諧謔性ではなく、彼等が拒否した詠嘆性に注目していく。それは女性短歌の台頭ということもあるのかもしれない。
この歌も男と女の隔たりがあるのだが、それを詠嘆によって「あたたかさ」に変えていく。多分男との距離は離れているのだが、そういう呪文を発することによって「あたたかさ」を現出させる。新たな呪術としての短歌なのである。そして、それは「」や句読点や一時空けによって醸し出されるのだが、リフレインさせるというのも現代的な詠嘆の手法かもしれない。
詠嘆表現は過去には制度的な文語として、「や」「けり」「かな」などの「助詞」や「助動詞」の疑似古文化が『万葉集』によって斎藤茂吉などのアララギ派によって制度的になされたのだが、現在の口語短歌として新しい試みとしての詠嘆表現が増えているという。
「よ」の使い方とリフレイン効果。しかしそれは「隔たり」を詠嘆として詠みながら砂利道を行くのだった。
疑問形の詠嘆表現で読み手との隔たりを問う。そしてその声が作中主体ではなく、天の声のように響いてくるという。
それは俳句や川柳でも新しい詠嘆表現が使われていたという。
短歌の作中主体(制度)とは別の声が聞こえてくるのだ。諧謔性から詠嘆表現が課題だな。ちなみに詠嘆表現の歌は初句切れが多いという。
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