シン・俳句レッスン116
鯉のぼり
ラブホテルと鯉のぼりの二物衝動はあり得ないのか、結果としては有り得るのかもしれない。いろいろ想像すると面白い句なのかもしれない。
今朝の一句は、これを真似した。
鯉のぼりは見る見られる関係。大道芸で鯉が空高く登って行ったというのもある。今朝は連句にしたんだ。日記の方に上げたのがここでも上げておこう。
地獄絵の賦ー地獄絵から戦火想望俳句
今泉康弘『人はそれを俳句と呼ぶー新興俳句から高柳重信ー』から「地獄絵の賦ー地獄絵から戦火想望俳句」より。これは短歌の批評からの続きなのだが、短歌の写生が正岡子規の危機感から生まれたということの続きから。
むしろ和歌は室町過ぎると俳諧の町人文化へと展開していく。そして江戸ではまったく和歌など限られた貴族だけのもので、そのしきたりを変えようとしたのが正岡子規であった。彼が描いた世界は地獄絵図の世界であり、その子規が地獄絵から歌を読む手法を茂吉が模倣するのだが、それを写生と言ったのだ。つまり現実世界にないことでも写生は出来るという写実は精神世界も含んでいたのである。それが斎藤茂吉『赤光』である彼岸の世界観なのだ。それは塚本邦雄が言う茂吉の幻想短歌ということなのだ。
「~ところ」は「~の場面」という意味だが、茂吉はそれは邪魔だと考えていたようなのだが、正岡子規を模倣して短歌を作ることを学んだ。茂吉にとって「写生」は自然を対象とするものでもなく心の実相も写生することを含んでいた。子規もそうした絵から俳句を詠むことを「写生」と言っていたのだが「ホトトギス」の虚子になるとその「写生」の意味が違ってくるだけではなく、そうした茂吉の考えも受け入れなくなってくる。
しかしその不自由さを感じた山口誓子は素材の拡大を、茂吉の影響をうけながら当時の映画のモンタージュの手法からモダニズム俳句を詠むことになる。それが連句によるテーマ性俳句だった。
そして、渡邉白泉が誓子の[「地獄行」影響を受けて戦火想望俳句「支那事変郡作」を作った。
ただこの時期は「地獄」は検閲の対象となる言葉で渡邉白泉の俳句では使われていない。戦後になると検閲はなくなり戦争の中で地獄は様々なシーンで使われた。ただそこにはそれまで罪人の地獄であったものが、
NHK俳句
いまいちよくわからなかった。年間テーマが世界という器に季語を盛り込むということなんだが、先走り過ぎという感じ。才能あるんだろうな。陶芸家でもあるという。ごてごての暑苦しさかもしれない。やっぱ蕉風だよな。
「万緑」は投稿したから「植田」だよな。「田植え」と違いだろうか。水が引かれることだという。風景なんだ。
「鮎(あゆ)」は難しいな。浜崎あゆみしか思い出せない。彼女歌が何かヒントになるだろうか?
これは使えるかもしれない。鮎は季語としてフルシーズンあるのだった。冬は氷魚、春は若鮎、夏は鮎、そして、冬は落鮎。これを全て入れられないか。振り返るという感じで。短歌だと浜崎あゆみの歌も絡めせられるかもしれない。俳句だと難しいな。
昭和俳句史(昭和50年代前半)
元号で書かれるとまったくわからないな。西暦にするとまだ1975年なんだ。もうとっくにゼロ年代かと思っていた。ゼロ年代は昭和の終わりだっけ。昭和は60年ぐらいまでだったから違うか?全然、時間感覚が違ってしまうな。ゼロ年代は平成の終わりなのか?平成十二年なんだ。まったくわからない。平成と令和が一緒になってしまっている。今、令和何年かも分かっていない。
昭和のイメージは自分たちが戦争世代を思い浮かべるのと一緒なんだな。平成が三十年だからすでに、それだけ年月が過ぎているのだ。平成生まれが中年世代なんだから。
ちょっと休憩に、現代俳句協会の動画を見る。現代俳句協会に入ろうと思ったが50歳以上だと入会金取られるのと7月からだと年会費半額というので見合わせていた。まあ無料記事や動画は見られるから。結構勉強に成ると思う。
川名大『昭和俳句史』「眼高手低の時代、戦後世代の台頭ー昭和五十年代前半」から。
戦後活躍していた世代は戦争を体験していたり激動の変化の時代だから、そこから新しいものを作り出すのも懸命になっていた。金子兜太の前衛俳句運動にしてもそれに異を唱えた中村草田男の伝統俳句にしても議論は活発だったわけで、そうした動きや外部からの批判もありながら高柳重信が『俳句研究』の編集などしたりして、それまでの俳句を批評するという流れはあったのだが、全体的に低迷していくというか、二極化が顕著になり、それが現代俳句協会の『俳句研究』と俳人協会の角川が出す『俳句』の対立構造である。そして大部分は有季定型の伝統俳句になるわけだが、それは初心者が学ぶのに学びやすかった。短詩という形の中で制限が設けられ、それは文学というよりも座の文芸としてゲーム化していくのだった。それはジャーナリズムに移行していくに従い大衆化していく定めだったのかもしれない。
その中で戦後生まれの俳人たちは旧世代の批評をしていくのだが、それは戦後の議論の焼き直しにしか過ぎなかった。そんな中でますます個人的な句が多くなる。むしろ旧世代の俳人たちが自身の作風を熟成させていくことで注目されていくので、戦後生の新世代は、より難解な句や自己中の句にならざるえない。例えば『俳句研究』では高柳重信が俳句新人賞として「50句競作」というハードルを設けるが、それが難解俳句や一般的にはわかりにくい俳句になっていく。
それを改めようとまた専門的な意見が出てくるが言語の本質論というような話になって、初心者にはますますわかりにくい専門的になっていく。全共闘世代の頃は一つの反体制という社会的なまとまりがあったのだが、その挫折から個人化が始まりシラケ世代となって、趣味的な文芸になっていくのだ。それは趣味的指向性の集まりとして細分化されてゆく中で大きなまとまりとしての運動とはならなかったのだ。それが今日までの状況になっているのだろうか?はっきり言って停滞期なのである。
そういう中でも細部を見ていくと俳句手法についての議論がなされるのだが、それらは専門的な議論になって一般人にはわかりにくくなっていく。
例えばこの時代を皮肉った加藤郁乎の句。
そんな中で高柳重信の「五十句競作」から登場した澤好摩の同人誌「未定」や坪内稔典らの「現代俳句」という同人的な活動はあったのだが、一般的には角川俳句の時代だったのだ。その中でかつての前衛俳句運動に関わっていた三橋敏雄が『真神』で注目を浴びるのはそれが伝統回帰の俳諧的手法だったからで、そのことは坪内稔典らの批判を浴びることになった。
川名大は最初の句は「俳諧的技法」とするが、後者の句は円熟さの表現と見る。その判断が個人の受け取り方で統一されるということはなく、ますます二極化していくのだった。そんな中で前衛俳句の大御所となった高柳重信が一人注目され続けたのは確固たる俳句の方法論を持っていたからだろう。川名大が高柳を褒めそやすのもその弟子であるかもしれなかった。
戦後生まれ世代の難解俳句や曖昧俳句に対して「読み」の方法論から高柳重信の厳密な俳句方法論(言語的な)が出てくる。それは象徴俳句として、意味のない取り合わせや独り善がりの「朦朧俳句(曖昧な俳句)」が多く産出されるのに釘を刺した。それは金子兜太と飯田龍太の座談会での感性の問題として対立することになる。例えば、
高柳は「堕落」という言葉はここでは相応しくないといい、石を水面に投げて水紋が出来るのは当たり前であるという。「堕落」が前衛っぽさを醸し出しているだけで、ただごと俳句だと断罪する。それに対して金子兜太は「堕落」を新しい表現として評価するのだ。
これも「断末」という言葉は正確ではなく「断末魔」を省略しただけの句で高柳は「断末」だけでは意味はなさないという。「断末魔」は「末魔」を断つという意味だから、この省略は無意味だという。それに対して金子兜太は「断末」という感性は理解出来るという。
こういう議論になると個々の感性の違いであり(高柳や龍太は言語が共同体のものなら正しく使うべきだという意見)、読み手側の解釈によって大きく評価が変わってしまう。その先例として、
の句はエロス的女体の読みを誘うが本人は池での写生句だといい、作者と読み手の解釈の違いがある。また別の例では、金子兜太「山上白馬五句」の読みで「白馬」を象徴と取るか実際の固有名で取るかによって解釈の違いがでてくる。たぶんにこれらの議論は作者の深層心理は作者以上に読み手によって判断されるものなのだ。そこから誤読が生まれむしろそれは閉じられた世界ではなく開かれた運動となるのだと思う。そこは言葉の厳密さだけでは推し量れないものがあると思う。何よりも言葉は生もので、権力によって定義されるべきではないからだ。
そのことと関連してか「軽み」論争が起きる。それは表現として「軽み」の俳句を提唱した山本健吉への反論として、俳句の「重い」「軽い」を判断するのも読み手にかかってくるのだし、芭蕉の晩年の句(仏教的な世界観なのか)は「軽い」「重い」で判断出来ないとする。この辺も読み手の問題であり、それは読みは訓練によって感覚が押し開かれるというのがある。それが伝統俳句の培ってきた読みというものなのかもしれない。動画があった。
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