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シン・現代詩レッスン111

奥山紗英『逆再生』

『現代詩手帖2024年11月号』特集「新鋭詩集2024 作品特集」から。
奥山紗英は、『寺山修司少女詩集』を好きな詩として上げている。その詩は読んだことはないのだが寺山修司が好きなので選んでみた。ただ寺山修司の詩は読んだことはなかった。少女性は大切な要素だと思う。

逆再生

今にも乾きそうな涙は
目の玉に引っ込んでいき
コップの水になってから
蒸発し
その一部が塀の上に乗った
その前を中学生が通った

タイトルが惹かれる。追憶の詩なのだろう。最初から「乾きそうな涙」だ。その涙は蒸発し、過去の塀の上に乗って、中学生をみている。それは語り手なのだろう。

おさげ髪の母親だった
右手に何か持っている
破られた手帳の一部だった

予想が外れた。でも母親と理解できたことは一歩前進だ。母親の手帳は日記だろうか?母親の日記を読んでどうのこうのという話はよくある。

兄からのお下がりだ
兄は可愛がられてきた
待望の子どもだった
丈夫な子どもを産むために
私結婚してきた

兄のお下がりというのは手帳のことだろう。破られた記録は兄の日記か?兄が可愛がられたというのは、よくある家父長制家庭なのか?待望の子というのは男の子のことだろうか?そこから「丈夫な子どもを産むために/ 私結婚してきた」は母の言葉なのか、語り手の言葉なのか不明だ。一般論なのかもしれない。

好きな人がいたけれど
そんなのは関係なかった
関係なかったのに殺された
かれは大きな国の一部だった
戦争はいつも大きかった

好きな人は戦争の相手国の人で、それはアメリカなのだろう。軍国主義の日本ならアメリカ人は殺されるべきだった。そんな人を好きになった母の日記か?ドラマチックな予感。

戦争はいつも大きかった
大きく二つに割れていた
ご神木も割れていた
英雄が腹を割ったら
刀を清めた水
暗い岩に染み込んだ
いの陰から鹿が出てきた

戦争についての一般論なのか当事者だからそう思うのか。そのあとに日本は負けたんだな。暗い岩から出てきた鹿は何かの象徴だろう。動物がでてきたら象徴詩だ。

赤い木の実をくわえたままで
同じ木の実をとてもまずい
腹を空かせた娘は思った
煤で汚れた裸足を
藁の上でぐいと丸める
ちくちくとくろまって
目に力を入れた

「赤い木の実」も象徴だろうか。クリスマスとか。鹿が娘みたいな感じだな。煤で汚れた裸足は敗戦後の焼け野原なのだろう。藁の布団なのか。ゴザみたいなものかもしれない。惨めな姿だ。それを忘れずに目に力を入れるのか。それは手帳の記事で母とは別の祖母かもしれない。語り手の年齢を考えると母ではない気がする。結婚したのは手帳の語り手なのか?

見つめる目が三世代同じということなのか?ちょっとわかりにくい詩だった。ヒントはタイトルにあるようだ。逆再生だから語り手が存在する時間を見ているのだろう。その見つめる目が入れ子状なのかもしれない。


逆再生

ぼくと分かち合うんだ
ぼくと言う女の子はそういう
ぼくと言えない男の子に

そして最後にこういった
ままごとみたいだと
ママの小言なのか

精神分裂病は言葉の意味を取り違える
今は統合失調症だ
ぼくが知ったのはディックの小説からだった
ヴァランス過度観念
そうディックは書いてはずだ
ヴァランスは精神の状態なのだ
精神は言葉のあり方だ
過度に言葉に偏ってヴァランスを保とうする
言葉はどんどん肥大していく
相手がいないから
それを埋め合わせる言葉が必要なんだ

ママなんていないのにママの小言が聞こえる
ままごとは遊びの比喩だ
比喩を理解することが出来ないで
言葉の意味通りに受け取ってしまう
それが過度に期待させるのだ

ハツカネズミとシェパードの遊びのルールは違うのに
ハツカネズミは気づかないということ
ジャーマン・シェパードには近づくな
奴らは警察の犬かもしれない
ディックの陰謀論にハマった

ハツカネズミの話をしよう
ハツカネズミはいつものように猫と遊びたかった
「トムとジェリー」遊び
それはTVの約束事で最終的には友達なんだ
そうTVは洗脳する
ただジャーマン・シェパードはそのルールを知らない
知らないというかそれはTVのルールでままごと遊び
彼等には彼等のルールがあるのだ
社会のルールという
それでままごとみたいだという
ままごとはママの小言
ハツカネズミはジャーマン・シェパードに噛まれるとは思って見なかった
ゲームだったはずなのに

ハツカネズミはカゴの車輪の中を逆走している
永遠にたどり着かない答えに

おまえを愛していた
それはママの言葉
ままごと言葉
愛しているのは自分自身だから
誰も愛を分かち合えない
ままごと遊びだった

関係性の修復は難しいものだ
言った言わないの言葉の世界
だれがそう言ったのか
森永LOVEという女の子
そうぼくは幻想を信じていた
彼女がバーガー・キングに組み伏せられるまで
比喩の言葉遊びだ
森永LOVEとハツカネズミと
バーガー・キングとジャーマン・シェパードと
ママとぼくの
愛のままごと

世間ではままごだった
分かち合う言葉なんて
最初からなかったのかもしれない
それでも比喩として
森永LOVEは存在して
ぼくという女の子で
ぼくと分かち合うという
何を?

それが物語の始まりだった
もう一度逆再生しようと
ぼくは思い出すのだ

クリスマス・イブの日まで

やどかりの詩




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