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シン・現代詩レッスン102

黒田三郎「秋の日の午後三時」

『現代詩101』からもう一度黒田三郎を見直してみる。唱和の酔っぱらい詩人とレッテルを張ってしまったが、ちょっと違う見方を見てみることに。酔っぱらいであることは変わりないのだが。

秋の日の午後三時

不忍池のほとりのベンチに坐って
僕はこっそりポケットウィスキーの蓋をあける
晴着を着た小さなユリは
白い砂の上を真直ぐに駆け出してゆき
円を画いて帰ってくる

黒田三郎「秋の日の午後三時」

会社をサボって上野不忍の池にいるやっぱ酔っ払い詩人か?そう画いているのだが詩を書くときはさすがに醒めているのだろう。

「晴着を着た小さなユリ」は娘である。酔っ払いの自分の姿と娘の姿が対に語られている。このユリは幻であるというのだが。

遠くであしかが頓狂の声で鳴く
「クワックワックワッ」
小さなユリが真似しながら帰ってくる
秋の日の午後三時
向岸のアヒルの群れ辺りにまばらな人影

動物園が近いのであしかの声が聞こえるのだ。このオノマトペはそれほど上手くはないな。ただ情景から声の世界は幻想かなとも思わせる。
アヒルの群れの声かもしれなかった。それも朧なのか?

遠くで微かに自動車の警笛の音
すべては遠い
遠い遠い世界のように
白い砂の上に並んだふたつの影を僕は見る
勤めを怠けた父親とその小さな娘の影を

ここも音から入っている。それは作者は目を閉じているのかもしれない。「すべては遠い」は詩のポイントだ。「遠い」のリフレイン。

「そこに白い砂の上にふたつの影」やっぱ幻影なのか。イメージの詩。そして現実の言葉が詩人にのしかかる。絵画的詩だと褒め称えるのだが音の導入で音楽的でもあるのだ。感傷という感じか。

冬の午前三時

こんな時間に目覚めるなんて
まだ寒いから寝ているか
トイレに行きたい
それは欲望だろうか
排泄という快感

言葉も
起きてパソコンをオンにする
言葉の始まりは?
そう問いかけ言葉を紡ぐ
風景が見えてこない
冬の夜だから

やどかりの詩


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