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シン・現代詩レッスン80
マフムード・ダルウィーシュ「壁に描く」四方田犬彦訳
昨日が推しの日とかで、最近の詩の推しはずばり、マフムード・ダルウィーシュ『パレスチナ詩集』なのだった。中東では詩が今でも流行っていてそれが読まれているということだがダルウィーシュ「壁に描く」はYouTubeに上がっていて、ちょっと感動するのである。80p.を超える長編詩だが、その中に過去の文学の詩や聖書の言葉が織り込まれているという。それはT.S.エリオットがやったモダニズムの表現だが、その詩が現代に蘇る場所がパレスチナの壁なのである。T.S.エリオットが書いた「あらゆる詩は碑文である」というのを体現している分離壁の詩なのである。
これがあなとの名前、と彼女はいい
螺旋の回廊に消えた………
天国が手の届くところに見える。白鳩の翼がわたしを
今ひとつの子供時代へと引き上げてくれる。夢をみていたなんて、
夢にも知らなかった──すべてが現実だ。
わかっていた、わが身を脇に置いて、飛ぶのだと。
究極の天球にあって、わたしはなるべきものとなる。
この言葉は『出エジプト記』からの引用があり、ユダヤ教における神の自己定義のひとつだと解説にあった。それを換骨奪胎する手法はまさにパロディなのだが、それは現実にパレスチナで起きていることだった。
前に死んだことがあるかのようだ。そのヴィジョンには見覚えがある。
自分が未知へと進もうとしているとわかる。
まだどこかで生きているような気がする。
欲しいものはわかる。
わたしはある日、なりたいものとなる。
わたしはある日、いかなる剣も書物も
荒野へと携えていけぬ思考となる。
草の刀に断ち割られる山に降る雨のような
勝利も、力も逃げまどう正義もない!
わたしはある日、なりたいものとなる。
わたしはある日 鳥となって、自分を無から存在を引っ掴む。
ダルウィーシュが詩で語るのは現実世界なのだが(この詩は心臓発作で入院した詩人と看護婦の会話を元に書かれたものだという)、そこに西欧哲学や宗教が織り込まれていく。そして隠喩を駆使して過去に見てきたものを回想していく。ここでは哲学者ハイデッガーと詩人のルネ・シャールの対話を間近で目撃したことも描かれていく。その中に監獄生活の拷問なども描かれているという。
わたしは生きたい……….船の背でやるべき仕事がある。
われらの飢えと船酔いから鳥を救うことではなく、
洪水に立ち会うという仕事だ。次は何がくるのか?
この古き土地に生き残った者は何をすればいいのか?
もう一度 物語を繰り返すか?
始まりとは 終わりとは 何なのか?
死者のもとから真実を告げに戻ってきた者はいなかった。
詩人の抗議の声はイエス・キリストの叫びと重なる。しかし、彼の神はどこにいるのか?
キリストが湖上を歩いたように、わたしは自分のヴィジョンのなかを歩く。
しかしわたしは十字架から降りてきた。高みを恐れ復活を口にしないから。
自分の心臓の音をはっきりと聴きとろうと、ただ自分の調子を変えてみた。
英雄には鷲がつきもの、わたしには鳩の首飾り。
屋根のむこうに捨てられた星、港に出て終わる路地。
この海はわたしのものだ。この新鮮な大気も。
この舗道も、わたしの歩みろ種の散らばりもわたしのもの。
古いバス停もわたしのもの。
わが亡霊も その主も。
このあとアラビア語で彼の名前が刻まれるのだが、それぞれの文字(五文字)に意味がある。そしてそれは友人の名前でもあるのだ(同名の名前の友人か)。かれは墓に収まっていた。
そしてわたしの名前は、棺に刻まれた名前を間違ったとしても、やはりわたしのもの。
わたしといえば、旅立ちの理由でいっぱいだ。
わたしはわたしのものではない。
わたしはわたしのものではない。
わたしはわたしのものではない。
ガザのジェノサイド前に書かれた詩なのだが。
消された落書き
ここでは落書き禁止の文字と白い壁だけだ。
毎日の通学でも通勤でも通る道。
そこが遮断壁でない限り平和な光景だろうか?
壁に落書きがあった頃
それはガザの壁と繋がっていたのかもしれない。
文字や絵たちが交歓し合っていたのだ。
それはロック・ミュージックの他愛もない愛の言葉だったり、性欲の塊だったりもしたが
今はそんな気配もない。もはや漂白された壁だけがあっちこっちに立ちふさがっている。
ぼくたちは遠い国の物語さえ聞かずにいる。
そんな物語はなかったのだと壁は遮断する。