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クラウス・キンスキーの誤算

『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』(2019年/イギリス=スコットランド=フランス)監督ベルナー・ヘルツォーク

解説/あらすじ
旅人で作家のブルース・チャトウィンは、幼少の頃、祖母の家のガラス張りの飾り棚にあった“ブロントサウルス”の毛皮をきっかけに、先史時代や人類史に関心を抱いた。美術品の蒐集家、考古学の研究生、ジャーナリストと、様々なフィールドで非凡な才能を発揮したチャトウィンが最終的に選んだのは自らの足で旅をしながら小説を書く人生だった。南米を旅し、デビュー作「パタゴニア」を書き上げたチャトウィンは、その後、アボリジニの神話に魅せられ、中央オーストラリアを旅した。当時は不治の病だった HIV に感染し、自らに訪れる死を悟ったチャトウィンは、死に近づいたアボリジニが生を受けた地に帰還するように、自らの死に方を探りながら「ソングライン」を書きあげた。映画は、一枚の毛皮から始まったチャトウィンの旅がユーカリの木陰の下で終わるまで、その過程で交差した人々のインタビューを交えながら、全 8 章、ヘルツォーク監督自身のナレーションで綴られていく。

coco映画レビュアー

放浪の作家ブルース・チャトウィンと映画製作を予定していたヘルツォークがチャトウィンの歩く思想というべき「ソングライン」についてのドキュメンタリー。

「ソングライン」というとピーター・バラカン監修の同名タイトルの映画があったことを思い出した。『大海原のソングライン』。それは海から伝わる歌の伝承だったが、チャトウィンがその言葉を命名した。オーストラリアのアボリジニの神話を歌をうたいながら移動していくなかで、世代から世代へと語り伝えられた文字になる以前の伝承神話というもの。それは個人の死は自然の途上でもあるが歌(神話)は語り継がれていくもので、例えばオーストラリアから南米やミクロネシアから沖縄~アイヌとか語り伝えれた「うた」というものを想像してみるとその土地で様々な神話を取り入れながら分岐しているのがわかると思う。

そうした原住民の歌はキリスト教会によって五線譜に変えられてしまったがそうすると神話の効力が消えるという。人間の声という微妙な感覚は西欧の音楽理論では捉えられないということ。多神教の世界観なのだと思う。本にしてもそれはいけないことなのだそうだ。本来そうした「ソングライン」を映画にしようとしたことがそもそも無理だったのかもしれない。

そうした「ソングライン」の映画をヘルツォークと制作する予定だったが、デビッド・ボウイに脚本を持っていかれたという。そんなこんなでチャトウィンもHIVに感染して亡くなってしまうのだけど。奥さんもいたのだが同性愛者でもあったらしい。チャトウィンは自分の死を持ってソングラインということを体験していくのだと思った。それは死後の世界が繋がっていくということ。映画には出来なかったがチャトウィンの歩く思想は残されたわけだ。

面白いのはヘルツォークの映画を見学に来たのだがクラウス・キンスキーの暴力的な素振りにチャトウィンが恐れをなして共同制作が流れたような。ヘルツォークはそれ以来キンスキーを使ってないという。夢のある話だけど、映画自体はインタビューとか多いので眠くなるドキュメンタリーだった。キンスキーのシーンは起きていたけど。誰でもクラウス・キンスキーよりデビッド・ボウイを選ぶよな。


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