シン・短歌レッスン179
『文學界 2024年9月号』短歌特集
8人による短歌7首連作
8人による短歌7首連作は山中千瀬「会ったことのない妹たちのこと」が良かった。ガザにいる短歌友達に贈った短歌は、短歌という歌が内輪だけでなく外の世界に開かれていることを示すと共にガザの人々との連帯を示す。
伊舎堂仁「空中ペットボトル殺法」
評論は、伊舎堂仁「空中ペットボトル殺法」が面白かった。歌会で問題作を投じた人だった。
やはりこの歌は破壊活動だった。「空中ペットボトル殺法」というのは普段何気なく飲んでいるペットボトルがいかに危険なものになるかというと問いかけであった。昔は火炎瓶などというものもあったのだが、そこまではいかないがそれに近いものだと思う。ペットボトルが攻撃性を持つ短歌として、
ペットボトルが存在の無力さを歌い反撃するのだ。
『ダイオウイカは知らないでしょう』西加奈子、せきしろ
これは二人の短歌レッスンなのだが、一年でこんなに上手くなるのかというよりも、最初から才能はあったのだ。
お題「初対面」、ゲスト穂村弘
これが最初の短歌なんだが形は出来ていた。口語のリフレインも上手いかも。ただ俳句だったら「みてて」は余計だと言われる。もう分かっていることだから。定型に合わせた感じか?「あたし」という口語が性格出ている。穂村弘の解説ではストーリーが出来ている。「久しぶり」の初句切れがいい。これは「あたし」が適当に言ったら相手が「初めまして」と言ったのか、その逆なのか?最初の短歌が
こっちの方が状況は描けていると思うが。定型に拘ったのか?コントっぽいというのが穂村弘評。
壮大な字余りだが「カットフルーツ」から下の句で、上句と下句で分けられて歌の形にはなっている。「初めて」というリフレインを重ねたのはそれなりにリズムを生み出している(せきしろリズム)そして「カットフルーツの香りの中」は8+6で定型にはなっているのだった。穂村弘も下の句を誉めている。最初にストーリーで、そして切り取った情景(匂い)。最初の字余りを処理すれば上手いと思う。
お題「寅」、ゲスト俵万智
寅年だったのか。今が巳年だから去年か(辰が間にあった)?
俵万智も干支で十二首作っているという。
口語の入れ方が上手い。新年の歌に相応しい明るさ。「寅の娘」は寅さんの娘ではなく、寅年生まれの母の娘ということだった。友達の店らしい。この歌を贈られた喜ぶだろうな。色紙に書いて飾ったりして(短冊でもいいのだが)。俵万智は、この「寅の娘」がわかりにくいので、「看板娘」とかにしたほうがいいという。それはその店オンリーの歌ではなく一般化だろう。
キミはタイガースファンということではなく、単なる無知が許せないという歌だという。正月からそれはないだろうと思う。別に表記なんてどうでもいいじゃないか、こういう細かい神経質な男は嫌だった。俵万智は心の微妙な動きが良くでているというのだが、正月からそれはないぜと思うだろう。
聴いたときには「寅年」と「虎年」も変わらんという本人の言葉、タイガースファンなら一生許せないというオマエはジャイアンツファンか!
お題「ダイオウイカ」、ゲスト穂村弘
「ダイオウイカ」は大王と付いているので、我々のことはよく知らないのじゃないかという歌だという。「あの方」は天皇とか思ってしまったがそれも「大王」と重なり合っているという。ただここは「あの方」の世界(地上)と「ダイオウイカ」(海)という対比があるのかな。この歌はいいという穂村弘の言葉。
定型に収めてきていた。「不惑」は四十歳ということなのだという。語り手を一人称とするからこの「不惑」が生きてくるという。でもそれが四十歳でいいんだろうか?四十歳ならダイオウイカとは戦わないのではないか。「白鯨」の船長みたいな奴なのか。仮定の話は、ダメだろう(全然不惑じゃない)。そっか最初の言葉は他者なのか?それに不惑という立場なのか。カメラが引いていく表現だという。
NHK短歌
飲みかけのペットボトルを見て写生の練習。
内輪の世界のように感じる。まだ「天体観測」の方が外に向かっているような。だけどペットボトルの句だったら、伊舎堂仁「空中ペットボトル殺法」の方に惹かれる。
これも尾崎豊の歌の方がインパクトが強い。むしろこれは穂村弘の焼き直しかと思ってしまう。
百年の視点で見る「現代短歌史」
『短歌研究 2023年 12月号』【拡大特集「百年の視点」佐佐木幸綱・三枝昻之対談・百年の視点で見る「現代短歌史」。『短歌研究』が創刊九十二年になるのでヨイショして、その時代の流れとしては近代短歌が始まって「アララギ」のいち抜けだったのだが、それだけでは「短歌史」は見えてこないという。三枝昻之『佐佐木信綱と短歌の百年』は「アララギ」以外にも注目した「短歌史」だという。その著者と氏族が対談しているので、その関連の記事だと思うが、短歌と言いながら和歌についても言及する必要があり、その中で窪田空穂が古典「万葉集」「古今集」「新古今集」を評釈したのが、古典観賞と近代短歌の進むべき道を示しているといい、「あららぎ」の「万葉」一辺倒とは違うという。
そして「あららぎ」の提唱した日記代わりの短歌だけでなく、短歌には「晴れの短歌」(公の短歌)と「 褻」(私的な短歌)があるという。そういう公の短歌を詠んだのが佐佐木信綱だったということで「おのがじし」というのは個人的な歌ばかりではなく、共同体の中の「己が為(し)為(し)」ということなのだという。しかし時代は個人主義的な歌が流行るわけで、啄木・晶子の「明星」もその流れだと思う。
そして関東大震災があり、そのあとに東京の復興のなかで口語短歌や自由律運動も出てきたのだという。面白いと思ったのはその中から前川佐美雄『植物祭』に注目するのだが、混沌の時代の何でもあり状態で一首が三百字ぐらいの短歌もあったとか。
十年の視点
【拡大特集「百年の視点」「十年の視点」証言「2010年代、短歌になにが起こったか」から。
ここ十年のながれはSNSでの短歌であり、その中で自費出版的な文学フリマや大手でない出版社から出る歌集が読まれているそうなのである。それは仲間うちでということで、すでに結社で鍛えられた者との分断があるという。そのなかでアンソロジーが出たりしたのは読んでいた。
短歌ブームというのはこれらのアンソロジーによるところも大きい。
さらに短歌史を探っていく人は小高賢『現代短歌の鑑賞101』もいいという(書店員お勧め本)。
ただこの書店員は『ドラえもん短歌』も薦めているんだな。