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シン・現代詩レッスン87

白石かずこ「バス停」

これもなかなか面白い詩だ。(アラブ)砂漠のバス停を詠んだそうなのだが、ふと日本のバス停のように現れるそれは記憶の場所としての幻想のバス停なのだ。それが蜃気楼のように感じられる。

流砂の上に 点
のように 沁みいる影があり
それはバス停なのである
どこから どこへ という標識は ない
ここでは 目的とか それから とか
なぜ とか
すべての 問い に 答えるもの も
いなければ
意味というものも
摩滅して 古い 辞書の中 もはや
ザラザラ と 石の舌だして 笑うだけ

白石かずこ「バス停」

一字空けの空白は空虚感のような雰囲気か。たどたどしい書き言葉。それがリズムとなっているのかもしれなかった。バスという乗り物は電車よりミステリー感が強いのは、普段乗り慣れていないとどこに連れて行かれるかわからないからだろう。電車は終点が大きな街であるのだが、バスの終点は取り残された村のような気がする。バスの短歌や歌で好きなのものが多いのはそんなところか?

意味という終着駅がないんだろうな。歴史とか、もう摩滅している。スフィンクスの石像が舌を出しているのか?ローマの休日のライオン像じゃないだろうな。日本だったら地蔵さんが舌を出している妖怪村か?

(頭脳の中にもっていた小さな部屋でさえ
 あの風が どこかへ 飛ばしていった
 からには もう………)
そういって
外に出る 自転車にのる が のっても
行く先というのがない だが 内側へ
引きかえすということも
そこも また ない行く先なのだ

白石かずこ「バス停」

()は朗読の場合どう処理するのか。書き言葉ではここはモノローグだから沈黙の言葉………。三点リーダが好きなのはそれが砂粒のような感じだからか。

「そういって」からはあの頃(自転車に乗っていた頃の想い出か)。ここのセンテンスは内面世界だ。自転車に乗っていた青春時代、あるいは映画のワン・シーン。

悪魔にもなり得ない汗まみれの汚れた軍靴の
脱走兵 いや 堕天使がいて
バス停は それらを 眼のまわりを 流砂で
砂色に にじませながら みて いる
の かも 知れない 流砂の上の
点 で あるものよ
たしかに存在している その 
幻の存在よ

白石かずこ「バス停」

悪魔の前にはマリアとか天使の比喩がある。現実と妄想が入り交じる世界なのだが、結局流砂の中に埋もれていく記憶なのだろうか。その点である一粒一粒の砂の幻を確かに文字で刻み込もうとしているかのようだ。

汚れたバスが止まりそれに乗るのだ と君が言う
疲れてしまったぼくは眠りこけて君の肩へもたれる
信じているんだ と君が言う
疲れているんだ とぼくが返す

夢の中では君はあの頃のままで走り廻っている
ぼくは君に 追いつけない で 
置き去りにされた
そんなことはない と君が言う
ぼくの足が遅かったから とぼくが返す

人さらいの地蔵さんは水子地蔵
ぼくはそのたくさんの地蔵の中
君が手を差し出し 救ってくれたのか
救ってくれなくてもこんな世界なら
とぼくは言う
そんなことはない と君は言う

太陽の光がそんな砂の言葉を照らし出し
流砂は顔に当たり 
たった 独り 降ろされた 砂漠の バス停

やどかりの詩

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