シン・俳句レッスン61
ハナミズキの実。赤は目立つな。ハナミズキの実は毒があるんだっけ?大体の植物は毒性があるのだが、それは子孫繁栄のためだというのを読んだことがある。
アレルギーも耐性によるもので、それまで耐性があったのに耐性ができなくなった原因があるのだろう。花粉症もそういうことだった。
ハナミズキの実の俳句はあまりないだろうな。
そうでもなかった。「水木の実」で五文字なのか?これは使えるな。
危険な赤信号。まあ食べるのは鳥ぐらいだと思うが。
「俳句ポスト」初心者に投稿。見事に入選。まああまり得意なテーマではなかった。「新酒」が季題だったから、思いっきりネガティブな句にしてやった。
下戸なのにむりやり新酒の会とかに呼ばれた男の悲劇です。まあ、こんな句を投稿する人もいないよな。本来なら新酒の喜びを詠むべきなのだが。そういう仲間意識に馴染めないのだった。投句の時はネガティブな句はまず取られない。出題者に対する反感と捉えられるから。
俳句いまむかし
坪内稔典『俳句いまむかし ふたたび』より。
冬
当たり前の「ただごと句」だが、しいいて言えばリフレインが効いているのか?リフレインとして最初と次の言葉は違いがあると面白いのだが、あとの「寒そうな話」というのは比喩的な社会情勢とかなのだろう。坪内稔典は身体の不調の話だと想像する。いろいろ解釈に余地がある句と言えるのかな。
西東三鬼の名句だ。水枕が耳元で氷がかち合う音がして、そこは北極の世界というような。
のろけ俳句か。子供の頃の懐かしさもあるから、それほど嫌な感じでもない。ただ妻はチビと言われていい気がしないかもしれない。それが愛情表現?
「ねつき打」が季語だった。「夕寒」かと思ったのだが。「ねつき打」は子供の遊びなのだそうだ。「釣瓶落とし」の別の言い方だと思っていた。「ねつき」が狐を連想させて、一人づつ減るに怪談話じみている。これは上手いかも。
独居老人の句だった。老人は青が好きなのはやはり青春時代の思いなのか?「枯野」と対になっている。
虚子の有名句。芭蕉の「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」のパクリのような気もするけど、虚子は写生句。やっぱ芭蕉の方がいいな。これも本人が作ったのではない説があるが。好きな高屋窓秋の「頭の中で白い夏野となってゐる」もイメージの俳句だった。
てのひらに載せたような風景写真かなにか?ちょっとわからない。枯木星がクリスマスツリーみたいな気もするが。解説によるとてのひらを丘に見立ててふと目を上げると枯木星が輝いているという。俳句の世界だな。
これもよくわからないが、枯木星を仰いで男が泣いている情景か。素手はどういう意味があるんだ。素手で涙を拭っているのだそうだ。涙は拭わないで欲しかった。ダジャレになっていた。欲しかった→星かった。関係ないことでした。ただ枯木星は使いたい季語だな。
水木の実を星に見立てた。
冬薔薇(ふゆそうび)でなくてもいいような気がするがシクラメンとかポインセチアとか。薔薇だとお姫様っぽいのかな。
子規の場合は写生句だから薔薇でなければならないのか?フランス産だとギロチンという薔薇を思い出す。ただここは冬薔薇だから赤い薔薇のようだ。
「腕ぶら下げて」は類人猿になるということなのか?不思議な句だ。続けて「寒林の明るい場所を知っている」「寒林の自ずと曲がる道曲がる」と連作。寒林族かもしれない。
そういうイメージはないよな。むしろ胴長短足の安定感ある体格だと思ってしまう。先の句のイメージが寒林のイメージだった。検索したら「寒林」のイメージが違った。奥深い雪の林かと思っていたが「墓地」なんだそうだ。
「かたじけない」という人だから高齢者だと思うが今はもう滅んでしまったかもしれない。恥ずかしいという意味なら禿げているんだろうな。禿げで汗で照り光っているとか。それで湯気も立っている。なんかいろいろ想像出来る句だから良句なのかもしれない。
西田幾多郎のイメージは確かに帽子を被っているイメージがある。その姿が前の句と重なる。
映画の主人公みたいだな。映画館から出てきたばかりとか。「コート」は「オーバー」よりも薄手のおしゃれなものらしい。うちに「オーバー」はあるけど「コート」はないな。
「外套」とか虚子も古いな。ただ「外套」というと愛着を感じるのはゴーゴリのせいだった。
逃げ出したわけではないようだ。海鼠は食べたことがないからあまり興味がない。沖縄の海にごろごろいた印象がある。
「おはしけむ」は古語で敬語だという。『伊勢物語』をイメージしているのか。「なまこのやうに」が業平のことを言っているのか?黒ナマコの一物か?下品か?俗な感じにしたのだが。
水のリフレイン。河豚を裁いたことはないがよくわかる句だった。
河豚よりも橋本多佳子らしい句だと思う。そうだ!橋本多佳子句集読もうと思っていたんだ。
橋本多佳子
『橋本多佳子全句集』(角川ソフィア文庫)から『信濃』
「西行忌」は二月十五日になっているが、これは旧暦じゃないのかな?桜の季節じゃないではないか?
橋本多佳子も西行好きなことはわかった。
この「翁」は芭蕉かな。草野が枯れてもそこにいるというリスペクト句だろうな。
「暁けて来る」夜明け前の「暁」。朝夜明け前に起きて軒下の燕と一緒にいる立ち姿だろうか?凛々しい。
橋本多佳子は信濃に住んでいたのか。そこの生活記録的な俳句だろうか?山燕という種類がいるのかな?「海燕」はよく聞くが、造語だろうか?山を超えてくるから「山燕」。長野の北アルプスに燕岳というあった。そんな風景か。
墓地に桜が散る情景か。「野墓」だから昔風の土葬なのかもしれない。「桜の樹の下には屍体が埋まっている。 梶井基次郎」
信濃に住んでいたかは確かめられなかったが、戦争中に疎開したのが奈良県の郊外ということなので、そのときの記憶があるのかもしれない。
初めての田舎の闇に連作していた。
戦争疎開での山深い土地にてシャーマニズム的世界に浸ったのかもしれない。
「霧月夜」が狐月みたいでいい。
文芸選評「俳句」
選者藤井あかり。「白息(しらいき)」
あまり言葉が出てこなかった。スクランブル交差点の歌を想い出したのだ。
NHK 俳句
選者夏井いつき「おでん」
コンビニの「おでん」の句が600通だったと。まずそこが全然思い浮かばなかった。屋台の赤ちょうちんとか。世代の差だな。コンビニのおでんはあまり食べたことがない。それだったらスーパーでパックの奴買ったほうがいいかなと。
脱ぼんへの道。
レジとレジ横が出てくる(観察眼)。そこまでだと実感以上の個性はない。
脱ぼんの句。
口語体が今風。ほとんどつぶやき俳句。でも、これはちょっと詩心を感じないな。現代俳句はこういうのがいいのか?
こっちの方はまだ詩的かな。ただあまりピンとこないが。学生時代の句だからか?
パクリの勧め。「実験室」を違う言葉に置き換える。
やっぱ飲んべえの句になってしまうな。下戸なのに。潜在意識としてアル中なんだと思う。
そして次に「煌々と」を自分の言葉にする。
ただこの例題が五五七だからやりにくいのかもしれない。
無職感が出ているか。