感情論が支配する世界
『望むのは死刑ですか オウム“大執行”と私 【告白編】』(2023/ 日本)監督長塚洋
オウム事件についてはここでも何冊か本を紹介したりして関心深いのだが、もう一つ「死刑制度」についてはまだ書くことはなかった。今回はこっちの方が興味深いような気がした。
オウム事件に関しては森達也の一連のドキュメンタリー『A1』から『A3』によって森達也と共感することが多かったのだが、一カルト集団が起こした事件というよりその背後にあるものが気になっていた。
その過程で森達也『死刑』という本も読んでいた。
なぜ死刑制度に反対するかというとそれが復讐法であり、冤罪も多い。そしてそれが国家のシステム化によってあらぬ方向へ向かうからと危惧するのと、実行させる人と実行する刑務官がいるからだ。このシステムの恐ろしさに気づかないのだ、それが仕事としてなされる時に、例えばアーレントの『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』に指摘されるように、それを仕事として大虐殺に関わってくる人もいる。
今回の映画を見ても一度に13人の死刑が一度に執行された。それは当然被告としてあるべき二審もなされずにだ。なぜそれほどこの死刑は行われたかを考えることはまずない。その中に被害者家族会の方もいたのだ。
死刑制度が行われているのは先進国といわれているのはアメリカの一部の州と日本だけであるという。あとは独裁者国家なのである。例えば日本人の心情として、森鴎外『阿部一族』などを読むと江戸の殉死の習慣などいまでは馬鹿らしいと思うのがほとんど人ではないか?その中で敵討ちも行われていた。その敵討ちを国家が肩代わりすることで明治政府は軍国主義へとなだれ込んでいく。当たり前なのは国家による殺人の正当性を認めてしまっからだ。そうなるとやられたらやりかえせという復讐法の感情的問題は国家よりも国民側にも受けることになる(この映画でも被害者感情という勝手に被害者の感情を理解したかのように装う言論界)。それが当たり前のように死刑制度に賛成(中にはわからないとする現状維持も入れて)する層が9割で明確に反対を唱えるのは一割ぐらいだという。
その問題について考えてこなかったのは何故かということなのである。国会議員は選挙のためにそういうことは言えないとする。だから有志の人がこういう問題を話し続ける映画が撮られたのだが………..。
考えてみれば復讐法を認めてしまうと国家を超えてあいつが許せないと成敗する輩が出てくる。オウム真理教の坂本弁護士一家殺害事件の根っこにあったのもこの成敗するという感情論だ。そのために国家システムでは感情論にならないように法があり審議されうるのであるが………..。
そして、この映画を見て明らかにされたことで、神奈川県警が弁護士一家殺害の事件の現場検証をしながら、それを拉致と認識せずに失踪と判断したのだ。その背景は宗教に深く関わりたくなかった警察組織があった。そこで思うのだが、これは宗教が背後にあることと関係してないかということである。例えば当時は権力と統一教会の繋がりはまだ明確ではなかったが、そういう繋がりがあったならば警察が宗教法人に尻込みするのも理解出来る。またその刑事部長が出世して行ったということである。
例えばまじかな安倍元総理のテロ事件もその問題が大きく浮上してくるのは、権力と宗教の関係と復讐法というカルマを述べる宗教とも繋がっているように思える。神による復讐という思考法が、そもそも戦争の原因で、自分の善以外に許せない、それ以外は悪人であり犯罪者であると決めつけてしまうのだ(ウクライナ侵攻もその論理だった、逆の立場そうであるならばますます戦争は拡大していくだろう)。それは国家よりも国民が思い込まされている観念以外の何者でもないのだ。
なぜ二審が受けられずに13人もの人が死刑にされたのか?そこに感情が存在するのは何故なのか?またその反対側にも感情論が出てくるのは何故なのか?そういうことを感情論ではなく理知的に対話したいと映画なのだが、国家の裏側を見せられたような。
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