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2023年の現代詩を読む

『現代詩手帖2024年1月号』

作品
谷川俊太郎 さて
中村 稔 魂の行衛
安藤元雄 木の葉の光
粕谷栄市 小さい人間
北川 透 転がっていく祭壇
吉増剛造 雛の家
八木忠栄 神さまたち
藤井貞和 隠国(こもりく)の人々
高橋順子 しろつめくさ
佐々木幹郎 チェンバロのように
荒川洋治 松島の道
井坂洋子 赤 「夕鶴」より
稲川方人 遠い雷光の地、論証の日々
瀬尾育生 rosa
吉田文憲 呼ばれているのに
朝吹亮二 南風
野村喜和夫  LAST DATE付近
江代 充 道の思い出
池井昌樹 知らないで 他二篇
城戸朱理 亡国
小池昌代 夢のなかの果実
四元康祐 雲の調停 Mediation by the Clouds
多和田葉子 わたしだけの本棚
高貝弘也 鎮魂歌/記憶
川口晴美 コインランドリーと黒豹で
和合亮一 首
蜂飼 耳 詩の語り手について
日和聡子 光明
小笠原鳥類 魚の名前の漢字――魚の名前のカタカナ――。赤鱝・赤鱏――アカエイ――。
石田瑞穂 揺籃晶
藤原安紀子 羊毛乗 ツクノママ、とおい非においての短詩文 #13
中尾太一 音楽よ、こんにちは
岸田将幸 虹色な日々よ
三角みづ紀 赤いトゥナ、青いトゥナ
峯澤典子 白い紙
最果タヒ 燃える森
山田亮太 赤地に白い十字とハートのマーク
暁方ミセイ 月が出ている
森本孝徳 武器軟膏
岡本啓 0年
水沢なお 受粉の手段

長篇詩
宇野邦一光のまちがい、時間のめまい(上)

連載詩
高橋睦郎 倖せそれとも ヨハン・ヴォルフガング・テクストル・ゲエテへ
川満信一 モダン幽霊 言語破れて国興るか
平田俊子 否定形の部屋 なにが詩それが詩
山尾悠子 夜の汽車、女たちⅠ 鏡の中の鏡
井戸川射子 祈願 いい運搬

受賞第一作
文月悠光 生存戦略 第34回富田砕花賞受賞第一作

月評
神尾和寿 思いがけない一言 詩書月評
松本秀文 言葉の「適量」 詩誌月評
笠木拓 エーテルの満ちる園より 睦月都『Dance with the invisibles』 うたいこがれる[短歌]
安里琉太 世界のしずかさ 南十二国『日々未来』 到来する言葉[俳句]

レビュー
依田冬派 Not Born Yesterday 福間健二監督『きのう生まれたわけじゃない』

書評
神山睦美 奴隷の抒情、私たちもまた 竹内英典『伝記』
白岩英樹 革命の始源 佐峰存『雲の名前』
笠井嗣夫 原理論から詩の現場へ 野沢啓『ことばという戦慄―言語隠喩論の詩的フィールドワーク』
鈴木理策 傍観してはいられない 新井卓『百の太陽/百の鏡』

新人作品
1月の作品

選評
峯澤典子 どのようにも読め、読めないという魅惑
山田亮太 「たのしかったできごとだけをくりかえしおもいだすこどものように」

最初に谷川俊太郎の詩が掲載されていて驚いた。去年の号だから一昨年の詩なのだった。今月の現代詩手帖には谷川俊太郎の詩はなく、しかしその空白は現代詩のようでもあり、また追悼詩もあるので、谷川俊太郎の詩のように思える。一昨年はイスラエルのガザ侵攻があったのか、そうした詩が目立つ。宇野邦一の長編詩(上下に分けて上だけ)や四元康祐「雲の調停」などが良かったのだが、ガザの壁があっても空は見上げられたのに空爆はその空をも奪ってしまうのだと感じた。


谷川俊太郎「さて」 

『現代詩手帖2024年1月号』特集「現代日本詩集」から谷川俊太郎「さて」。去年の新年号に掲載された谷川俊太郎の詩。今年はないのだから、ほぼ晩年の詩なのか。『現代詩手帖2025年1月号』には、谷川俊太郎の名前がないので、その「喪失感」たるやこの目次が詩みたいだ。谷川俊太郎への追悼詩もあるし。

谷川俊太郎ぐらい詩を体現した人はいないだろう。もう呼吸が詩みたいな人だった。何を書いても詩になってしまう。そういえば「ぼくは詩人にはなりたくなかった」と書いたのも谷川俊太郎だ。その逆説が見事に詩人に成りえているのか?

さて

昨日書いた詩が
今日もう退屈
自分を通り過ぎて
さてどこへ?

谷川俊太郎「さて」

絶妙な言葉なのは、それが問いになっているからだろう。自分では昨日書いた詩なら傑作だとおもってしまうのに。谷川俊太郎を通りすぎて、退屈な詩だと反省するか?「さてどこへ?」という合いの手だよな。

外のない
宇宙の
内から
でられない

死すべき

死すべき
あなたがた

谷川俊太郎「さて」

宇宙というキーワードが谷川らしさかな。これは内宇宙を言っているのか。死はその外側にあるものではないのか?教えてくれと言っても教えてくれそうもない。それが死=詩の難しさか。

クリシェに与えず
たんぽぽを踏まず
呟きから
囁きへ

谷川俊太郎「さて」

「クリシェ」と平気で言ってしまう。フランス語で常套句ということだとネット検索したが、そういうことではないような。たんぽぽを踏まずということは?わからん。呟きは「以前ツイッター(現X)」をやっていた。そこに最後の詩が出ているかもしれない。囁きぐらいがいいのか?クリシェが呟きでたんぽぽが囁きなのかもしれない。

声を
あげぬ
我が身に
ひそむ

褪せた
刺青
愛の
騙し絵

谷川俊太郎「さて」

あまり大声で言わないほうがいいんだな。ひそませるぐらいで。怒りも喜びも哀しみも楽しみも。褪せていく刺青とは、ジャニスの青い向日葵を思い出す。刺青のない人生から刺青のある人生へ。そして消すことが出来ない刺青は褪せていく。「愛の/ 騙し絵」というのは谷川俊太郎の詩全般に感じることだった。騙し絵みたいな。ひょっこりどこかで詩を書いているのかもしれない。

宇野邦一「光のまちがい、時間のめまい(上)」

『現代詩手帖2024年1月号』特集「現代日本詩集」から宇野邦一「光のまちがい、時間のめまい(上)」。宇野邦一は現代思想の批評家だが詩も書いていた。もどかしさだろうか?言葉や世界に対しての憤りを感じる。長編詩であり、掲載部分は上だけなので下もあるのだろう。思想をとりあえず詩にしたという形なのか?言葉の洗練さとかないが、その言葉の端々から力強いメッセージが聴こえてくるようだ。

光のまちがい、時間のめまい



はじまらないが終わらない
はじまりが終わって
書くことははじまらない
まだはじまらないことをはじめるのに
言葉を知ること まだ知らない言葉ではじめるため
それを知らないままでははじめられない
が知らないことに気づいた
はじまらないこと
終わらないことにも気づいた

宇野邦一「光のまちがい、時間のめまい(上)」

この詩はパレスチナのことを詠んだ詩だと思うのだが、言葉で言い尽くせない思いなのか?知らない言葉ではじめるよりもとりあえず手元にある言葉ではじめてもいいと思うのだが。それでとりあえずはじまりはあることになるし、言葉が尽きたときにそれは終わりを迎えるのだろう。

しかしもう時間ぎれ
時間はたっぷりあったのに
今はな流れない砂 息のとまった時計 流れないいま
言葉もたっぷりあったのに
思い出せないほど
思い出せない言葉がたっぷりあったのに

宇野邦一「光のまちがい、時間のめまい(上)」

このような気持ちになってしまうのは本を読みすぎるからだろうか。膨大な本の言葉の前の無力感。さらに世界に対しての無力感。砂の言葉。

いつのまにか書きはじめたが はじまらない
はじまりからははねかえされる はねかえしてくる闇 湾曲した闇
いや光のまちがい 闇と光の混同 網膜のまちがい
言葉はきえたのではなく 尽きたのではなく
凍った言葉は 言葉でないぶ厚い固体に変わった
むしろ壁 岸壁

宇野邦一「光のまちがい、時間のめまい(上)」

これで一章は終わるのだが、大抵の詩は結末近くに本音が隠されている。タイトルらしき言葉も出てきた。「光と闇」は聖書の神話だろうか。砂漠の思想。そして壁はガザの壁だろう。壁打ちのような言葉の繰り返し。けっして壁は破壊されることはないのだろうか?



空間  空そら なのか
空 からなのか 空気がつまっている
空気で息がつまる 固すぎても
柔らかすぎても 風のことか
見えない曲線のむれ
いや光の粒子の嵐
私が動けば つむじ風

宇野邦一「光のまちがい、時間のめまい(上)」

2、3は聖書的な言葉。ユダヤ教が石の文字から始まったというような石の言葉。それは戒律に縛れる宗教的なものなのだろうか?言葉の起源的なもの。4章は、それに対して漢字の二重性みたいなものなのか。同じ「空」でも二つの意味が存在する。一つの意味だけでは固すぎるのだ。言葉の生成変化。それは見えない曲線、われわれの声なのだ。そこに光の粒子の嵐というユダヤの言葉、私の言葉はつむじ風にしかすぎないのか?



帝国 あれは帝国だった
私とは何の関係もない
私は遠くの天体
あれは黴から育った帝国
私の知らぬ言葉で考える

宇野邦一「光のまちがい、時間のめまい(上)」

「帝国」は現代思想用語だ。ドゥルーズとか、アニメでもいいんだけど。そういう世界が一方にあり、私とは別世界だと眺める。「黴から育った帝国」という間違った神の国みたいな。グノーシス思想が入っているのだろう。天体は宇宙だけどここは内宇宙。ここでは言葉というようなものか?

食べる 言う 聞く 食べる 喋る 飲む 聞く 言う 食べる
(略)
日本語を噛む 咀嚼しない 呑み込む 喋る 言う 味わう もぐもぐ言う 目をあける

宇野邦一「光のまちがい、時間のめまい(上)」

日本語に対する嫌愛の情なのかと思う。ほとんど口についての言葉か?欲望としての言葉。それは帝国の欲望の論理なのか?口偏はもともと祈りを入れるいれものだというのが白川静の漢字学だった。そこに骨の甲骨文字をいれるのだ。



(略)
どんな生でも死よりはまし
それでも死んだほうがましとかるがるしく言う
もう死んだようだが死ではない
生きているようだがじつは死んでいるのか
このくいりがいばかり いじりまわして
死にぞこないの時間がすぎる
それほど複雑なわけでも単純なわけでもなく
ただのとりすました癲癇老人ばかり
もういいかい いいさ
それでも死者を救えと書くか
書くしかないか ただのつぶやきの祈りか
いつのまにかはじまり
いつのまにか終わり

宇野邦一「光のまちがい、時間のめまい(上)」

埋葬するのもそうした祈りからだろう。だが埋葬出来ないバラバラな死体。『小説 伊尹伝 天空の舟伝』でも伊尹は戦争で亡くなった者を埋葬することから始めるのだった。死への無関心と生の希薄さは共通しているのかもしれない。続きは後日ということで、とりあえず前半だけなのだが、「いつのまにかはじまり/ いつのまにか終わり」は繰り返されるのだった。

四元康祐「雲の調停 Mediation by the Clouds」

『現代詩手帖2024年1月号』特集「現代日本詩集」から四元康祐「雲の調停 Mediation by the Clouds」。四元康祐はよく知らなかった。何かの研究者。

詩人なのか?小説家でもあるな。作家にしとけば間違いはないか?この詩は国際創作プログラム(アメリカの大学)でイスラエルのガザ攻撃を受けて書かれたものだった。散文詩から始まって、それは事実を散文(エッセイ的)で書いたもので、その後に韻文詩が始まる。最初にその国際創作プログラムの様子とイスラエルのガザ攻撃で意見が二分したこと。アメリカはユダヤ人が多い社会でイスラエル寄りの人も多いのだろう。戦争がもたらす分断と対立は大学内でも起きていた。そしてこういう場合に日本人は曖昧に傍観するがどっちに付くか意見が求められる。そうしてプログラムも終わりそれぞれの国へ帰っていくのだが、フィンランドの詩人が雲の写真集を手渡されて、それで英詩「Mediation by the Clouds」を書いたということだった。それの翻訳詩ということなのか?

今まさにこの瞬間
恐ろしい戦火が広がりつつあるのを知りながら
その上に浮かぶ雲を見あげることは
どこか疚しい。

四元康祐「雲の調停 Mediation by the Clouds」

雲を眺める人が好きな人なのに、そうした雲を眺めることも疚しいと感じるのは、ガザでは空爆で雲さえ安心して見られないからだろう。

けれど雲はそこに、地面と
空との間にかかっていて、液体と
固体のどうちらの側に与することも拒絶しながら、
昇りくる朝陽に頬を染める
恥知らずにも、
眼下の血しぶきには上の空で。

四元康祐「雲の調停 Mediation by the Clouds」

大抵の日本人がこの立場だと思う。そこに空の思想があるからだろうか?この場合、むしろ中島みゆきの歌を連想する。

ここでユダヤ人の友達がいて、彼と親友でいられることが出来るのか?むしろ、それはできないから孤独を選ぶのかもしれない。空と君との間にはミサイルがあるというわけだ。しかし、ミサイルを持ってしても雲は止められないという。それが空の思想か?そして、四元はそんな「雲を調停者」のようだという。

ヒトは雲に非ず。
ヒトは肉と骨と血から出来ている。
だがわたしたちヒトにも魂というものがあるらしく、
大昔の中国人はそれが雲と同じ物質だと信じていたのだそうだ。

四元康祐「雲の調停 Mediation by the Clouds」

この中国人は老荘思想だろうか?よくわからん。雲と魂が同じ物質とは考えられないかも。ただ雲の形は無意識的であるな。そこに空なる思想があるのか?

ではひとつ想像してみようではないか、わたしたち一人一人の胸のなかに
ぽっかり雲が浮かんで入る光景を、悠然と
ヒトのなかから解放される最後の瞬間を待っている雲と
その背後の青空を。

四元康祐「雲の調停 Mediation by the Clouds」

背後の青空を感じられないから悲観するのだった。まだ中島みゆきの歌の曇り空の方が安らぐ。雨は涙なのかもしれない。雨が赤い血を洗い流すまで。

そのフィンランド人から返事が来て、やっぱ涙を流すという。青空のあとのスタンザがあるというのだ。

多和田葉子「わたしだけの本棚」

多和田葉子の詩が面白かった。もともと小説の方ではファンなのだが、デビュー作から結構ファンで読んでいる。ただ詩を読むのは初めてだった(もっとも小説でも詩みたいな感じでもあるし、彼女の小説が詩的でもあった)。架空の本棚という題名だけがづらづら並んでいるだけの詩なのだが、ありそうでないだろうという世界なのだ(ボルヘスの図書館を連想させる)。もしかしてドイツ語の本をお茶目に日本語に翻訳したのかもと思ったが、それにしては日本社会についての本のようにも思えた。こういう詩は自分でもやってみたくなるものだ。何かきっかけを与える言葉というのは重要だ。

わたしだけの本棚

背表紙たちは それぞれが
それぞれのやり方で
わたしに背中お向けている
彼らの冷たい文字が
時にわたしの心を
沸き立たせることもしらずに

多和田葉子「わたしだけの本棚」

擬人法ですね。擬人法は下手にやるとダサくなると言われているが、本の背表紙を背中を向けているという表現が面白い。彼らの冷たい仕草。逆にわたしは彼らを知りたいと心を沸き立たせる。ストーカーですかね。

「我が国おける小指の痛さ」
「落ちこぼれた動物たち」
「昭和のバベルとバブル」
「考える消しゴムたち」
「ニシンの意見、サバの見解」

多和田葉子「わたしだけの本棚」

まあ、こんな具合に続いていくのです。それぞれの題名は何かを暗示しているようで面白い。「小指」は子供とか、「おちこぼれた動物」は人間だろうとか、海水汚染については「ニシンやサバ」の主張も聴かねばとか。さらに、どんどん続いていく。読んでみたい本は、

「「ぶれ」と「かぶれ」の民俗学」
「忠犬ハチ公の甥」
「すべる言語学」
「ハイデッガーのおやつ」
「毒殺の文化史」

多和田葉子「わたしだけの本棚」

「ぶれ」と「かぶれ」は共通点がありそうな、なさそうな。「忠犬ハチ公の甥」は知らざれる文豪の小説かもしれない。「すべる言語学」は心理的要因とか。「ハイデッガーのおやつ」はカールではないよな?「毒殺の文化史」は毒女かな。

あらいざらしのカーテンを開けると
文字たちが
光の中で崩れる

多和田葉子「わたしだけの本棚」

夢だったのかな。「光の中で崩れる」がいい感じです。自滅していくのかな。

最果タヒ「燃える森」

『現代詩手帖2024年1月号』特集「現代日本詩集」から最果タヒ「燃える森」。年越し「現代詩レッスン」だな。特別な詩人というのもなく、やはり最近の詩人から最果タヒ「燃える森」からやろう。

燃える森

愛していると云えば燃える森。
冬は空気が澄んでいるから、炎の光が一瞬きれい、
どんなものを燃やしても、どこかの星とは同じ色の炎になる。
だから安心して欲しい、
多分、むかしの死んでしまった誰かと、
ぼくは同じ孤独のなかにいる。

最果タヒ「燃える森」

最果タヒにしては随分前向きの詩だと思ってしまうのは、燃える炎が太陽と同じだからだろうか?しかし、その前に燃える森となっていた。ここは韻を踏んでいる。そして、愛しているという言葉の肯定性か?

人の欲望は自然を破壊するということなのか?その孤独は多分そんなところかもしれない。燃える森なのに、その中にはいないぼくなのだ。それでも最終的には燃える死となっているのだろうか?

これは供養なのかもしれない。護摩法要。『源氏物語』で光源氏が紫の上の手紙を燃やして供養していた。それで気持ちを切り替えるということかもしれない。仏教的な儀式か?

ぼくは生きるだけで、
誰かに「わかるよ」と言ってあげているのだろう。
わかるよ、きみはさみしかった。わかるよ、きみは愛されることを求めることが、愛することだと思っていた。きみのことを誰も好きにはならなかったのかもしれないが、ぼくはきみと同じ心臓を、胸の中において、じっと窓から外を見ている、

最果タヒ「燃える森」

途中から散文詩になるのだが、散文になると散漫な詩のように感じる。それはぼくときみが同体のものとして見て、そこに他者はいないような。この「きみ」は他者よりもぼくの代わりなんじゃないかと思う。ようは、ぼくはきみより孤独で、不幸だと書くのだが、それはぼくの感想であってそこには他者であるはずの「きみ」はいないのだ。

外の薔薇がひときわ美しく見える日、
ぼくはつい、外に出て、日差しの中でそれをみるのだ。
世界は美しいかもしれないと、少しだけ気づく朝。

最果タヒ「燃える森」

「燃える森」はどうなったのか?「燃える」は「萌える」だったようだ。だから突然薔薇の花が咲いているのだ。あの薔薇がきみの心臓の生まれ変わりかもしれないと思うのだ。そして心臓の音が同調するという詩だった。

蜂飼耳「詩の語り手について」

『現代詩手帖2024年1月号』特集「現代日本詩集」から蜂飼耳「詩の語り手について」。最近(でもないのか?)の現代詩で一番のお気に入りは蜂飼耳だった。まず名前が面白い。

ゼロ年代の詩人か。このへんは新しかった。最果タヒとかこのあとなんだろう。詩の形が詩に対する形というか問いかけだった。詩の語り手は大いに問題だ。たいてい一人称なのだが、そこだと短歌と同じだから、そこからの発展があると期待したい。

岩の上に現れた蟹は
右の、そして左の、
暗い、鋏を持ち上げ
ゆっくり、開く
まばたきのよう

この蟹は象徴で、語り手の内面かもしれない。この部分は一人称を情景の中に消すのは俳句的であるのかもしれない。短歌だと蟹と戯れる啄木になるのだと思うが。

〈語り手は誰か〉
という謎に
直面する今世紀の詩は
語と語のあいだ、
行と、行とのあいだに
窓を
作りたくて

なんで蜂飼耳を語り手と言ってはいけないのか?それは共同体の中で直面する「私」の自我よりも自己ということなのだろうか?システム上の私は語らされている者なのかもしれなくて、むしろその語や行の間に潜む「語り手」を見つけることか。

うたい出したり、
定型に握手を求めたり、
歩行と称し、道を延長
とうの昔に、韻文じゃないんだ、
何か、どこかへ置いてきて
かわりにポケットにいれたのだろう、

ここは短歌(うた)や俳句(歩行=吟行)を意識しているのか?現代詩を始める前に俳句とか短歌をやってみるという詩人は以外に多い。またそこから小説を書き始めたりするのだが。蜂飼耳『紅水晶』という短編集があった。韻文から散文への魅力なのか?

どうなっても、
非定型の道筋はこれまでを辿れて
どのようで、あっても、
行の靴は 行の足音 響かせて
〈語り手は誰か〉
いまも探している

〈語り手は誰か〉と問うこと自体が一人称の「私」ではないと言うことなのか?蜂飼耳という名前がシャーマン的で蟲師みたいだ。蜂から情報を聞く耳という。今読んでいる本で中動態という能動態とも受動態とも違う態があったという。それは自ら意志的に動くのではなく、動かされているのちに受動態となるのだが、もともとは能動態と違う概念の言葉で、たとえば人称よりもそれらの言葉が先にあったという。英語だとItで表されるそれらというもの。

もともと言葉は情報という人称のはっきりしないものだった。それは神が現れる前の自然というようなものだったと想像する。中動態が消えていくのはキリスト教の一神教が現れてことからスコラ哲学とかは教会の教えを中心とするものになっていく。それが中動態に変わって受動態(パッション)になっていく。パッションは受難・受苦と訳されたりもする。つまり受苦を受けてそれを意志的な信仰の力によって切り開いていくという欲望なのだ。中動態はそれに対して何もしないこと。あるがままの姿として受け入れるギリシャ(キリスト以前の)哲学なのだ。

いくつかの扉が、あって
どこから入っても行き着く先は同じなのか
(ふたをあけるぞ)
定型と非定型の未来に
信じがたいほど溶け合う帰結に
やがて、また、うた、としか呼べないものに
探している 雨粒 雨粒
その語り手を

雨粒のような言葉、それは自然界にあるアミニズムの声だろうか、そうした声を蜂の羽ばたきの音のように耳をすませているのかもしれない。


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