シン・現代詩レッスン92
北村太郎「悪の花」
『新選 北村太郎詩集』から。昨日予告したので北村太郎「悪の花」をやらねばならないが、予告なんてするんじゃなかった。約束は嘘の始まり。
これは「悪の花」の引用なのか、正津勉との言葉なのか不明なのだが、そういうことであった。次回は「悪の花」だな。
先の引用は正津勉のものであって北村太郎の詩「悪の花」からではないようだ。詩には句読点がなかった。それで疑問が解明したので終わりということにしたいと思うのだが、今日のレッスンだからやるとするか?まず「悪の花」がそれまで発表された詩の総決算ということだった。だから「悪の花」を読めばそれまでの北村太郎の詩のおおまかなことは分かるということか?自己言及ということなのか?自己模倣に陥るのは良くないとどっかで読んだ気がした。でも自己模倣意外にどんなことが出来るのか?北村太郎の詩は詩を書くことを問題として、詩についての詩なのだと思う。だから正津勉の指摘はもっともなことなのだ。
『悪の花』はボードレールの『悪の華』から来ていると思う。ボードレールから詩は変わったのだという見方が詩の歴史の重要な点なのだ(そう信じるのは一部の詩人だけかもしれない)。
まず鳥の象徴がある。ボードレールはアホウドリとしたのだ。役立たずの死を待つだけの愚かな鳥。ボードレール以前の詩は浪漫派だろうか。日本だと四季派ということになるのかもしれない。
ちょっと違った。「荒地派」が「四季派」の後になるのだった。無理やりボードレールを「荒地派」と結びつけたかもしれない。「四季派」の中にボードレールは芽生えていた。
とにかくそういうことで抒情詩は象徴詩となっていく。ファンタジーの世界は去ったのだ。次の行に書かれている通りどんなに詩を書いても無意味な世界なのである。それは散文だからか?まだ韻文なら象徴詩のように選ばれたものに問いかけることができるのではないか?ボードレールを小林秀雄風に読むとそういうことかもしれない。そこに精神性とか出てくるのである。だけどわたしはそういうのも無意味だと思ってしまう。すでに人は自然には帰れないないのだ。自然の精神性など無意味の存在だと思うのだった。だから、散文でも韻文でも同じことだと、考える。
だいたい詩人の言うことは正しいかなという気がする。ただ一日の終わりは沈黙する意志というよりも疲労感に憑かれて「死の目ゆめの目」の中にいるのかな。それは無意識的なことなんだと思うのだ。
シュールレアリスムが出てきたのは無意味なことも意味性を見出すことだった。しかし無意味な世界を認識したのだから、むしろ無意味な世界に生きるべきなのだ。そのことに意識的であること。それは意味ある生という精神的なものではなく、無意味な生という自然の姿だ。
だから詩を書くのも無意味だけれども詩を書くのは無意味さを生きていると言える。もう結論が出てしまったのか?それでは30番目の詩を見てみよう。
「何事も」の前に前文として十四行詩にして終わらせるかという自問が入るのだが省略した。それは無意味に思えたからだ。詩人も十四行詩にすることは考えてないのだ。ただ無意味な言葉だけが存在した。それは無意識の中では十四行詩を試みたのかもしれない。そして闇を見る。その無意識の中に物語がある。「光りと影の交替」という物語。無意味な世界だが詩人は夢見ている世界なのだと思う。無意味な夢をみちゃいけないということもないだろう。その続きを夢見るから生の終わることが出来ないのだ。途中で中断させるのは天命だけ。それが自然ということだ。自然は無意味で無秩序なのだ。そこに意味性を与え意味を見出してコントロールする人間がいる。
夢見る詩人は
ある詩人がうたったというのはロバート・ブラウンニングの詩をグレアム・グリーンが引用した文章を木村太郎が引用したのだ。それは物語の登場人物の話でもとを辿れば言葉にしかすぎない。地獄に生きるという言葉なのだが、それは意味ある言葉なのだろうか?