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シン・現代詩レッスン93

北村太郎「石原吉郎」

『新選 北村太郎詩集』から「石原吉郎」。前に鮎川信夫の石原吉郎の追悼詩をやったので比較のためにみておきたい。石原吉郎はシベリア抑留帰還者で、その壮絶な体験から自閉症的になりコミュニケーション障害から詩(俳句や短歌を含めて)を書き始めた人で彼の詩集『サンチョ・パンサの帰郷』は問題作として多くの人に読まれた。

そして詩人として活躍するのだが、彼の厳しい生き方は生ぬるい日本人の生活と対極的なのである。鮎川信夫の追悼詩はそんな石原吉郎に共感的に書かれていたのだが、北村太郎は違う感性で追悼詩を書いている。

石原吉郎

ベッドにひっくり返って
天刑のような一行を待っているわたしくしと違って
あなたはいとも楽々と詩を書いた
いつも爽やかで
うつくしく
そのくせ変な不在感みたいものが充実している詩を
アルコールが好きなのに
ほとんどまったく
酒について書いてないのは
なぜなんだろう

北村太郎「石原吉郎」

タイトルが北村太郎「石原吉郎」は三人称で鮎川信夫「詩がきみを」は二人称で、養老孟司の説によれば三人称と二人称では死の受け止め方が違うという。二人称は身内の死みたいな感じなんだろうか。本編の詩では北村太郎も「あなた」をつかっているが「きみ」と「あなた」では距離感が違うと思う。

ここでは「あなた」との詩に対する違いを書いているのだと思うが、石原吉郎が「楽々と詩を書いた」ことはないだろう。鮎川信夫の詩の冒頭が「生きるのを断念する」ということに付いて書いていた。この冒頭だけで北村太郎はあまちゃんだ、と思ってしまう。「爽やか」とか「うつくしく」とかはちょっと石原吉郎の詩のイメージとは違う(もっともこれは同時代的に生きてないので初期詩集だけのイメージをわたしが持っているのかもしれない)。

酒についての詩が少ないのは酩酊感に浸りたくないのだろう。わたしはその逆で酒も飲めないのに酒の詩を書いていた。これは酩酊感だった。

舌のしびれや薬物に近い物体による諸症状なんて
単にうす気味わるい無意味だったのかも知れない
あなたは坊主頭だった
あなたが
それ以外の表情は許せないといった憂鬱感にみちた苦行僧の頭みたいだった
わたくしはしがない感覚主義者だから
たぶんあまたとはソリが合わなかっただろう

北村太郎「石原吉郎」

石原吉郎の精神主義的な容貌を坊主頭だと言っているのか?坊主頭は髪が薄くなったときに床屋に行かずに自分でバリカン刈り出来るので便利なのだ(坊主頭が苦行僧はないな。ずぼらな破戒僧もいそうである)。北村太郎が「感覚主義者」というのは叙情ということだろうか?エピクロス派というのはわたしの理想とすべき人物だと思うのだが。

たぶんわたしも石原吉郎とはソリが合わないと思う。むしろ北村太郎タイプなのかもしれいない。

あなたの詩は無類に苦しく
しかもこの上ない魅力なのだ
だいたい『北條』という詩を出したとき不吉な予感がしたのだ
すてきなタイトルではあるが
あなたは伊豆生まれで
鎌倉にいさぎよいイメージを持つのは理解できるが
サンチョ・パンサの行くさきにしては淋しいなと思ったのだ

北村太郎「石原吉郎」

石原吉郎『北條』はメモメモ。武士道に対しての憧れなのか?「サンチョ・パンサ」はドン・キホーテの解釈者だが、ドン・キホーテの騎士道(武士道)を喜劇として捉えていたのだ。石原吉郎がサンチョ・パンサからドン・キホーテになったということかもしれない。

「重大なものが終わるとき
さらに重大なものが
はじまることに
私はほとんどうかつであった
生の終わりがそのままに
死もまた持続する
過程であることに
死もまた
未来をもつことに」と

北村太郎「石原吉郎」

この引用は石原吉郎の詩の引用だと思うのだが意味がわからない。生物学的なことよりも精神的なことを言っているような気がするが。

しかし
ひとつの息が長く絶えてしまえば
のこるのは白骨だけではないとはなかなかいいにくい
すべての冬の木に時ならぬみどりがひろがるような
限りないやさしさ
断崖から飛び降りていつまでも地に激突しない恐ろしさ
その両方を
あなたはわたくしに与えようとする

北村太郎「石原吉郎」

ラストは追悼詩として上手いなと思わせる。逆説なのだ。白骨になろうとも詩(言葉)は残り、それが冬木のように春になれば緑になって巡廻していく。

そこは鮎川信夫のラストと通じるものがあるかもしれない。

ぼくはきみに倣って
「きみが詩を」ではなく
詩がきみを
こんなに早く終えたことを悲しむ

鮎川信夫「詩がきみを」

詩人も死人

北村太郎の追悼詩にしようかと思ったら
谷川俊太郎が亡くなって
そっちはどうするかと
一応、谷川俊太郎は短歌で挽歌は詠んでるからと

それにしても詩人の死人は多すぎて
次々と忘れ
歴史は繰り返す
季節は繰り返す

俳句に忌日があるが俳人も廃人となって
死人となっていくのだ
それだけの多くの死者は詩人だけではなく
時代と共に先人が先に行き
残された敗残兵のように
時代に取り残され
季節に取り残され

冬が来る

冬の詩を歌い続けて春は来るのだろうか

やどかりの詩



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